Neue Geschichte

歴史をテーマにオタク活動するブログ

西行の歴史を歩く 花の下にて

2018年3月、寮の近くにあった寺院をぶらりと訪れてみると、出迎えてくれたのは満開の桜。まだ少し寒い風が吹く中で、私はポケットのウォークマンから桜の季節らしい曲を探しました。いくつか目に止まった中で、一番しっくりきたのは「幽雅に咲かせ墨染めの桜」のジャズアレンジバージョン。東方妖々夢のクライマックスを飾る曲を聴きながら、私は平安時代の坊さんについて想いを馳せ始めたのです。

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史実と虚構のはざまに

東方妖々夢の主軸となる妖怪桜、西行妖。その誕生の発端となったのは歌聖が詠んだある和歌でした。

 

願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

この和歌の通りに歌聖は世を去り、その死に様に感動した人々が同じ桜の下で後を追ううちに、ただの桜が妖怪桜になってしまった・・・

これはゲーム・東方妖々夢のプロローグです。

 

ここに登場する「ある歌聖」とは平安末期に実在した西行法師。

彼は日本各地を旅しながら、数々の和歌を残しました。百人一首に選ばれている、以下の歌が有名です。

 

嘆けとて 月やはものを 思はする

かこちがおたる わが涙かな

 

冒頭の「願わくは」歌は、西行の最期の和歌として知られています。彼はこの和歌の通り、釈迦入滅と同じ月に、満開の桜の下で生涯を終えました。命日は釈迦と1日違いだったとされます。

 

ここまでは史実、つまり実際に起きた出来事です。

 

この史実をもとに、ゲームの原作者は「人々が感動し、後追いまで出て、妖怪桜が誕生した」と架空のストーリーに繋ぎました。

 

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画像は西行法師の娘とされる「西行寺幽々子

 

ですが、実際にそんなことは起こり得たのでしょうか?現代の感覚で考えてみましょう。例えばローマ教皇ダライ・ラマが亡くなった時、私たちはテレビを通じて、生きていく希望ごと失われてしまったかのような人々が、悲しみにくれて涙を流す様を目の当たりにします。確かに1人の死は多くの人々に影響しうる。

 

一方、西行は宗教上の要職にあったわけではありません。当然、その死がテレビで報道されるはずもない。西行のひっそりとした死が、同時代の人々に影響を与えることが可能だっのでしょうか?可能だとしたら、実際にどんな影響があったのか?

 

私はこのように疑いながらも、実際にそういうことがあったと史実に残されているのではないかと思ったのです。原作者はその史実を手がかりに作品を想像した。そうでないと、このプロローグが非常に突飛なものになってしまう。

 

私が勝手にあると決めつけた史実は、そのとき何か魅力的なものに思えました。自分はまだ知らないけれども、確実にあるハズのもの。それを追ってみることで、これまで目にしたことのない光景、知らなかった事実に触れることができるのではないか?

 

それは私の東方妖々夢を見る目すらも変えてしまうのではないか?そんな気がして、西行の跡を追い始めたのです。

 

西行の生き様

西行の死に様を知るためには、西行の生き様を知らなければならない。

そう考えて、様々な書籍に当たり、彼が和歌を詠んだ場所を訪れていきました。そうするうちに、西行の人生がぼんやりと見えてきました。

 

西行は僧侶でありながら、旅と和歌に行きた人でした。奥州・平泉や紀州・熊野、四国・讃岐など様々な場所を訪れ、和歌を読んでいます。

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紀州熊野古道の中辺路

 

西行にとって、和歌とはなんだったのでしょうか?

それは、一言でいえば和歌即真言西行にとって、和歌とは仏教の真理を語るための言葉でした。

 

和歌のことをそんなふうに考えている人は西行以外にいませんでした。なので彼と同時代の人たちは、西行の和歌には不思議な力が宿ると考えたのです。

 

実際に、西行は和歌の力で不思議なことを起こしました。

 

例えば、保元の乱で負けてしまい、配流となった崇徳院という方がおられました。流された先の讃岐で崇徳院は生涯を終えるのですが、絶望のあまり怨霊となった、と都の人々が噂するようになります。噂には尾鰭がついて、とうとう怨霊を見た、という人まで出る始末。

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怨霊となった崇徳院

 西行は、生前の崇徳院と面識がありましたから、讃岐を訪れて彼の魂を慰める和歌を読みました。

 

よしやきみ 昔の玉の 床とても

かからんのちは 何にかはせん

(我が君よ もうよしてください 昔の様に玉座についておられても

 この様なことになってしまっては 一体何になるのでしょうか)

 

西行が讃岐に渡り、崇徳院の魂を鎮める和歌を読んだことが都にも流布すると、怨霊の噂もピタリとやんだのです。

 

 実際に不思議な力があったのか、それとも人々が都合よく解釈したのかは不明ですが、西行の和歌が仏教の真言であり、不思議な力が宿ると当時の人々が本当に思っていたことは事実です。そして、その極め付けがこの和歌です。

 

願わくは 花の下にて 春しなむ

その如月の 望月の頃

 

和歌の通り、西行は満開の桜と満月の下で、しかも釈迦と1日違いで生涯を終えました。

 

西行和歌の不思議な力で、西行は望んだ通りの死を迎えた。そのことは都の人々を多いに感動させたようです。歌壇の重鎮・藤原俊成天台宗座主・慈円と寂蓮、藤原定家と公衡が西行の最期と和歌についてやりとりを交わしているのが残されています。

 

後追いはあったのか?

ここまで見てきた通り、西行が和歌の通りに死んだことは、都の人々を大いに感動させたことは間違いありません。

 

でも、東方妖々夢のストーリーにあるように、後追いはあったのでしょうか?

結論から言うと、私はほぼなかった、と思っています。

そのことについて、弘川寺から考えてみます。

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西行終焉の地 弘川寺

 

弘川寺は河内にある寺院で、西行終焉の地として知られているだけでなく、春は桜が、秋は紅葉が美しい、知る人ぞ知るスポットでもあります。

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秋の弘川寺


現代の我々は西行が弘川寺で亡くなったことを知っていますが、西行がどこで亡くなったのかについては、江戸時代まではっきりしていませんでした。西行平安時代末期の人ですが、鎌倉時代にはすでに、弘川寺とは別の寺が西行終焉の地として、誤って認識されていた様です。

 

これこそ、西行の後追いがなかったことの証拠ではないでしょうか。もし、妖々夢のストーリーのように、多くの後追いが出たのであれば、その事実ともに、西行が弘川寺で死んだことも残されるはずです。ですが、実際にはそのようなことはなかった、故に平安から鎌倉の動乱の中で、弘川寺のことをみんなが忘れてしまった、そんな気がするのです。

 

それでも信じられない方は、西行が亡くなった3月下旬頃に弘川寺を訪れてみるといいでしょう。静かな、それでいて寂しさを感じさせない山里の中に弘川寺はあります。麗かな春の日差しの中、桜だけがはらはらと散っていく。時々、遠くのほうでホトトギスの鳴き声が聞こえて来る。

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山里の静かな夕暮れ

 

春の弘川寺にいると、西行が弘川寺を終の住処に決めたのもわかる気がします。彼は世を捨てて好きに和歌を詠むだけの平穏な人生を送ったのではなかった。崇徳院木曽義仲平清盛・・・動乱の中で、多くの人々が権力を極め、そしてその座から転げ落ちて行った。西行自身も生き残ることと、和歌を次の時代に引き継ぐことに必死だった。そんな彼が、自分の仕事を全てやり切った上で、最後の場所に選んだのが弘川寺なのです。

 

この静かな空間には後追いなんて似つかわしくない。

西行の願わくはの和歌を詠んだ。でも、その和歌は死ぬことそのものを詠んだのではなかった。

桜が満開の弘川寺で、私はそう確信することが出来たのです。

 

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西行法師の墓


でも私は冒頭で、ほぼなかった、と書きました。ほぼなかった、と言うことは例外があったのです。この例外も、現地に行ったからこそ知ることが出来ました。せっかくなので紹介させていただきます。

 

唯一の例外、それは江戸時代の僧侶でした。名前を似雲といいます。大の西行好きで、「今西行」の異名を取る彼は、鎌倉時代に分からなくなっていた西行終焉の地が弘川寺であることを突き止め、自らも弘川寺で生活をするようになります。

 

彼は弘川寺に住むだけではなく、その周囲に桜の木を植えました。弘川寺は主にソメイヨシノと山桜を見ることが出来ますが、ソメイヨシノは江戸時代に大流行した品種ですから、私の写真に写る桜も似雲が植えたものかもしれません。

 

 その似雲は、自らが発見し、桜で飾った弘川寺で生涯を終えました。似雲の墓は、西行の墓の近くに残されています。その人生はさぞや満足のいくものであったことでしょう。西行の非常に面白い点は、このように後世の人々が西行の和歌を再現しようとするところです。これは別の機会に書きます。

 

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似雲の墓


以上、見てきた通り、西行は宗教上の要職にはありませんでしたが、その彼の和歌には不思議な力が宿ると考えられていました。その和歌の通りの彼の死は、多くの人々を感動させた。でも、後追いと言えるようなものは似雲を除いてほぼなかった。

 

ですから、弘川寺まで出向いて西行妖に出会すなんてことはありません。コロナが落ち着いたら、弘川寺で西行に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか?

 

主要な参考文献

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西行を描きながらも、辻邦生の世界観が前面に押し出されていて読み応えのある一冊。

西行の生涯を一通りなぞるのであればこれ。辻の小説らしく風景の描写がとても美しい。

 

 

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西行をテーマに各地を旅してみようと思わせてくれた一冊。

知識のある人はこういうことを考えながら旅をするんだなぁ、というのがわかる。

教養のある白洲先生と違い、教養のない私は何を書くべきか、とか考えたりもした。

 

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西行の和歌に触れてみたい方はこちら。

本書以外にも、角川ソフィアのビギナーズクラシックスにはいい本が多く、

とりあえずこれから読んでおけば間違いないとオススメできる一冊。

 

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【漫画 煙と蜜】大正時代の名古屋

いつもの本屋である漫画が目につきました。タイトルは「煙と蜜」。

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表紙に描かれた男女は、(と言っても女というより女の子という方が正しいのですが)その服装で作品が大正時代モノであることを強烈に主張しています。

 

歴史をテーマにブログを書いている者としてこれはスルーできません。手に取って、帯を見てみると「大正5年、名古屋」と書かれています。

え、大正で、なんでわざわざ名古屋・・・?

 

筆者は名古屋生まれの名古屋育ちで、好きな野球チームは中日ドラゴンズ。20年間を過ごした地元のことはそれなりに知っているつもりです。

だから「大正時代って言ったら帝都東京でしょ?物語の舞台になるほどの魅力って名古屋にあったっけ?」と思ったのです。

 

工業でも農業でも日本で上位に食い込む愛知県ですが、観光業についてはかなり劣ると言わざるを得ません。ですが、東海道新幹線のおかげで、名古屋人には京都も東京も近い。日帰りの東京観光ですら不可能ではないのです。

 

名古屋人にとって、レジャーは県外に求めるもの。自前で自慢できる観光力を持たない代わりに、それがあることによる煩わしさから解放されるという利点を享受しているのです。

 

そんな華のない街・名古屋で、モボやモガの闊歩する花の時代を描く理由はなんだろう?などと考えながら、レジに足を運んだのです。

 

簡単な内容説明

良家の娘である花塚姫子(12歳)と、帝国軍の将校である土屋文治(30歳)は許嫁の関係で、3年後に正式に結婚する事が決まっています。

 

キャッチコピー「戀から愛へ。子供から大人へ。」の通り、主に姫子の視点から、二人の関係が描かれているのですが、これがキュンキュンする訳ですね。

 

文治さまは男の目線から見てもセクシーで、彼が煙草の煙を燻らせるシーンを見ると、こういうの見てみんな煙草始めるのかな、とも思えてきます。

 

また、2人の関係だけではなく、大将時代における日常、四季の変化や、何気ない日常を丁寧に描いていく感じは、天野こずえARIAを思い出しました。読んでいて、ほっこりと落ち着くのです。

 

ですが、ずっとこんな感じで続く訳でもなさそうです。

 

第一巻の後半では文治さまが30歳にして帝国陸軍第三師団・歩兵第六連隊の大隊長であることがわかります。

Wikiで調べてみると、第三師団は大正時代に実際に名古屋に置かれていたようで、この第六連隊は、大正7年にシベリアへ出兵することとなる・・・

ここから、出兵の前後が物語のハイライトになることが想像できますね。

 

それでもなんで・・・?

山場が出兵前後であると推察される「煙と蜜」ですが、なぜあえて、大正5年・名古屋なのでしょうか?

 

戦争で引き裂かれる二人をテーマに描くのであれば、他の時代・他のロケーションもあり得るはずです。

 

例えば、明治の女流歌人与謝野晶子。彼女の弟は日露戦争に従軍し、旅順での作戦に参加することなるのですが、その時に与謝野晶子は有名な「君死にたまふことなかれ」の歌を残しました。

 

与謝野晶子の弟が所属したのは大阪の第四師団・第八連隊ですから、舞台を1900年の大阪に設定しても、戦争で引き裂かれる男女を描くことはできるはずです。しかも、与謝野晶子と同時代の舞台ということで、一般的にもわかりやすい。

 

にもかかわらず、大正5年の名古屋を舞台に選ぶのはなぜでしょうか?

私は、以下の2つの可能性が挙げられると思います。

 

①作者は旅順でもその他の戦場でも無く、シベリア出兵こそ描きたい

②作者は大正時代の名古屋に魅力を見出している

 

ただ、①の場合、出兵の3年前からゆっくりとした日常を描くのはちょっとチグハグな感じがします。

 

それよりは、大正時代の名古屋に魅力を見出し、物語のアクセントとしてシベリア出兵を置く②の方が自然なように見えます。

 

ここまでが、巡礼の前置き

20年間を過ごした私にとって、大正時代の名古屋はいまいちピンとこない。

一方、漫画 煙と蜜の作者は大正5年の名古屋に魅力を見出している・・・

 

地元民でも知らない魅力とは一体なんだろう?と思ってカメラを片手に、きちんとマスクをつけて帰省しました。

 

目指すは、名古屋駅から桜通線名城線を乗り継いだ先の市役所駅。

このエリアでは、明治・大正っぽい建物が残されているイメージがあったのです。

 

ということで、市役所駅から徒歩10分ほどで名古屋市市政資料館に到着。

ここは明治・大正から令和に至るまでの名古屋の歴史が展示されているだけではなく、建物自体も大正11年に建築されています。

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入館は無料で、時代を感じさせるエントランスが迎えてくれます。

地下の大学図書館のような古めかしい香りがしている。

 

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二階の展示スペースは写真撮影可能な場所もあるとのことで、回ってみました。

 

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右下に第三師団司令部とあります。文治さまの勤務地ですね。

 

第七話「兵隊と金鯱城」の一コマ目と似ています。漫画はもう少し弾き気味の構図であるところと、正面に木が生えていないところが違いでしょうか。

 

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こういったシーンも漫画の中で登場してそうですね。

 

展示ムービー曰く、覚王山・広小路通り周辺には大正時代の建築が残されているとのことでした。ネットで検索してみると、大正時代から続く喫茶店とかもヒットしますね。

こうしてみると、私が知らないだけで、大正時代の素敵な建物は結構残されているのかもしれません。

 

「煙と蜜」に登場するかも?とか思いながら、名古屋を巡ってみるのオツなものかもしれませんね。

 

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名古屋大正めぐり、続くかも・・・?

 

 

 

 

西行の歴史を歩く 熊野修行

前回の記事では、西行の出家について触れました。

 

彼の出家の原因の一つには、待賢門院との恋愛がありました。西行は出家した後も、待賢門院のことを気遣ってか、なかなか京都を離れることはできなかったのです。

 

ですが、1145年に彼女が世を去ったのち、西行も都を離れて修行を行うようになります。

 

今回扱う熊野も彼の修行地の一つ。西行には熊野で呼んだとされる和歌があり、様々な季節で詠まれていることから、熊野で修行をしたのは一度や二度ではないと推測されます。

 

では、西行が何度も修行をしたとされる熊野とは、一体どの様な場所なのでしょうか?

 

熊野はどんな場所?

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熊野の存在は遥か昔、神武天皇の伝説の時代にまで遡ります。那智大滝を発見されたのが神武天皇とされているのです。神武天皇が大和に帰る際の道案内を務めたとされるのが、八咫烏で、現在では日本サッカーチームのシンボルとなっています。

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神武天皇

 

平安時代になると、大陸から伝来した仏教と日本古来からある神道の結びつきが強まっていき、熊野も神仏混淆の聖地とみなされる様になっていきます。

 

平安時代には他にも注目すべき出来事が起こりました。宇多天皇が熊野詣(熊野御幸と言います)を行ったのです。宇多天皇天皇という神道のトップの立場でありながら、寺院を建立しその門跡(住職)になられたお方です。

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宇多天皇

 

天皇による熊野詣では人口に膾炙し、平安時代には蟻の行列の様に熊野を目指す人々が絶えなかったそうです。

 

宇多天皇の熊野御幸は、のちの天皇にも引き継がれていきました。後白河天皇後鳥羽天皇をはじめ、数多くの天皇が熊野御幸を行う様になります。

 

では、なぜ天皇は熊野を訪れたのでしょうか?

 

一つ目は宗教的な理由です。熊野では、歩くこと自体が修行になります。老若男女・貴賎を問わず、歩いて熊野本宮大社を目指す。その修行を通じて、神仏の加護を得られると考えられていました。

二十八回もの熊野詣でを行った後鳥羽上皇は、承久の乱隠岐へ流されてしまいますが、そときに読んだ和歌が残っています。

 

岩にむす 苔踏みならす み熊野の

山のかひある 行末もがな

(熊野の山の峡を見ながら岩に生えている苔を踏み鳴らすほど通った。

 その甲斐あって、世の中の行く末が良くなってほしいものだ)

 

二つ目には現代でいうところのリフレッシュがあったことでしょう。京都にいる限り公務から逃れられない天皇であっても、熊野まで来れば大自然に囲まれ、忙殺される日々から解放されることが出来ます。

 

三つ目としては政治的な理由があります。熊野には代々住み着いた豪族がいて、水軍を有していました。東海道を往くにせよ、西海道を往くにせよ、京都にとって熊野は後背地に当たります。京都の安全保障上からしても、熊野との関係は重要だったのでしょう。

 

我もしてみんとす

以上の歴史を踏まえて、実際に熊野修行を行ってみました。

熊野修行にはいくつものルートがありますが、現代で主流なのはそのうち中辺路と呼ばれるルートです。

 

和歌山県紀伊田辺で前泊し、翌日の早朝からバスで滝尻王子まで移動。

現代の熊野修行はここ、滝尻王子から始まります。

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1日目は滝尻から近露王子までの20キロをひたすら歩く。道中には高原の里など、素晴らしい光景が広がっており、これが苦行であるということを忘れてしまいます。

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6時間ほど歩けば近露王子に到着。ここで一泊し、翌日は熊野本宮大社までの残り20キロを歩きます。

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つまり、2日日間で40キロも歩くわけです。1日あたり6〜7時間ひたすら歩く。

一体どんな人が、こんな苦行なんてやるんだ、と思ってました。

 

でも、案外いけます。

むしろだんだん気持ち良くなってくる。

 

熊野の道中に電波はありません。納期や上司のことを考えるべくもないほどの険しい道を登り、その先で素晴らしい光景に出会う。

 

熊野には、大自然と先人達が歩いた道しかないのです。この中で、普段の煩わしい文明から解き放たれて、ひたすら歩き、時々飯を食い、眠る。

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こうするうちに、普段の余分なことが剥がれ落ちて、「生きることってこういうことだよな」と、わかった様な気になるのです。

 

本当に、巡礼の道とは良くできている。

2019年には7月と10月の二度も修行してしまいました。

 

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大社に着いた後は、熊野の温泉街で2日目を終えます。

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湯峯温泉街

中辺路の修行はここまでですが、せっかくなので那智滝のある那智勝浦まで足を伸ばしました。紀伊半島を西から東に横断したことになります。

 

那智大滝

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落差日本一である那智滝の前に佇んでいると、人間を超えた力に圧倒されます。

神や仏以前に、私たちが持っていた自然信仰とはこの感覚ではないか、そんな気にさせられるのです。

 

西行は一般に真言宗の僧侶とされていますが、天台宗のトップ(座主)や伊勢神宮の神官と交流があり、特定の宗教に囚われない思想の持ち主でした。

 

次の和歌は、一般に西行が呼んだとされる和歌ですが、その源泉は、ここ神仏混淆の聖地・熊野にある、そんなふうに思えてくるのです。

 

なにごとの おはしますかは 知らねども

かたじけなさに 涙こぼるる

 

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参考文献

白洲正子, 西行, 新潮文庫

西澤美仁, ビギナーズクラシックス 日本の古典 西行 魂の旅路, 角川ソフィア文庫 

金森早苗編, 楽学ブックス 神社4 熊野三山, JTBパブリッシング

金森早苗編, 熊野古道をあるく, JTBパブリッシング

吉野朋美, コレクション日本歌人選028 後鳥羽院, 笠間書院

辻邦生, 西行花伝, 新潮文庫

 

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西行の歴史を歩く 出家と法金剛院

願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

この通り和歌を読み、東方妖々夢西行妖誕生のきっかけを作った西行法師、

今回は京都は嵯峨野線の花園にある法金剛院から、彼の若かりし頃にスポットを当てていきましょう。

 

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西行の俗名は佐藤義清、代々武士の家系で彼自身も北面の武士(宮中の警護隊)として勤めてました。北面武士は武芸だけでなく、容姿の良さや教養も必要とされるぶん、将来の成功も望める役職であります。

 

あの平清盛も若かりし頃に北面武士であったようです。天皇に近い役職という有利が、平家の時代を作る下支えになったことでしょう。

 

さて、将来を確約された仕事についていた西行ですが、北面武士を突如として辞めて出家してしまいます。その理由は定かではありません。同僚の突然死によって無常感を悟った説や、ある高貴な女性からフラれたショックによるとする説が有力ですが、これら様々な思いが西行の中で渦巻いていた結果であり、一つの原因に収束できないというところが実態かと思います、なにせ、出家したのは23歳、悩み多き年代ですから。

 

ところで西行をフッたとされる高貴な女性は藤原障子後の待賢門院であると言われています。彼女は、白川上皇の孫娘で、鳥羽天皇の妃であり、崇徳天皇の母親にあたる高貴な女性です。

 

障子の人生は祖父である白河上皇の時代に絶頂を迎えましたが、それも長くは続きませんでした。白河上皇崩御後、鳥羽天皇の寵愛が別の女性(美福門院)に移ってしまったのです。

 

美福門院との権力闘争に敗れた彼女は、自信が建立した法金剛院で出家し、そのまま生涯を終えることとなります。

 

障子が出家して待賢門院となる頃には、かつての義清も出家し、西行となっていました。お互いに出家した後も、2人の交流は続いてた様で、待賢門院の従者である堀川局と西行が交わした和歌が残っています。

 

尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし

花と散りにし 君が行方を   西行

(尋ねても風の便りにも聞くことができない、

 花のように散ってしまった待賢門院の行方は)

 

吹く風の 行方知らする ものならば

風と散るにも 遅れざらまし   堀川局

(吹く風が行方を知らせてくれるのならば、

 遅れずに後をついていくのに)

 

美貌だけでなく、周囲に好かれる人となりの持ち主であったことが偲ばれます。

 

法金剛院は京都は嵯峨野にある律宗の寺院です。京都駅からJR嵯峨野線から徒歩で10分ほどの花園駅で降りれば、お寺はすぐそば。

 

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ここ法金剛院は待賢門院が信仰していた法華経の世界を現世に再現したかの様に、四季折々の花々が庭園を飾ります。特に見どころななのは、3月下旬の桜と6月下旬の蓮。

 

四季折々の華が楽しめるのに関わらず、あまり混雑していないところも、カメラ好きにはたまりません。

 

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待賢門院桜と呼ばれる桜は、濃いピンクに咲きます。名前の通り、本人もさぞ妖艶な方だったのでしょう。

 

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法金剛院の1番の見どころは蓮のシーズンで、蓮にはこんなにも種類があったのかと驚かされます。

 

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泥中にあっても清楚な花を咲かせる蓮は、仏教における悟りのモチーフ。失意のうちにあった待賢門院の祈りは今でもここに根付いています。

 

 

houkongouin.com

 

コロナの影響で閉まっていましたが、7月11日から拝観再開するそうです。

詳しくは下記リンクからご覧ください。

この時期ならギリギリですが蓮を見れるかもしれません

 

続きはこちら

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ニコニコに動画もあります

www.nicovideo.jp

【東方妖々夢と西行の歴史】虚構から史実を読み解く

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妖々夢は虚実入り乱れてるからこそ面白い


願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

ある有名な歌聖はかく詠み、その通りに自身の生涯を終えました。

その見事な死に様に人々は大いに感動し、中には同じ桜の下で死ぬ者まで出る始末。

そんなことが繰り返されるうち、その桜は人を死に追いやる妖怪桜「西行妖」となってしまったのでした。

 

これは、言わずと知れたゲーム東方妖々夢のプロローグです。

 

妖々夢のプロローグが秀逸なのは、事実と虚構(フィクション)を巧みに織り交ぜている点で、和歌を詠んだとされる「ある有名な歌聖」にもモチーフがいます。

 

それは平安時代末期を生きた西行法師。生涯に2000首を超える和歌を残し、百人一首にも選ばれている彼には、冒頭の「願わくは」歌以外にも、桜と死にまつわる和歌があります。

 

仏には 桜の花を 奉れ

我が後の世を 人弔はば

 

これら2つの和歌はどちらも東方妖々夢のステージ開始時のカットインに登場しており、作品から西行の存在にたどり着くための手がかりとなっています。

 

 

また、その西行には娘がいたとされ、西行物語絵巻には西行が出家の際に娘を蹴り飛ばして出ていく様が描かれています。

 

この「蹴り飛ばされた娘」こそ、ある有名な歌聖の娘・西行寺幽々子のモチーフであることは言うまでもありません。

 

妖々夢のストーリーは事実と虚構によって彩られているのです。

 

原作者のZUNは、歴史的事実に幻想郷のエッセンスを加えた上で、このストーリー(=虚構)を私たちに提供してくれました。

 

それに対して私は、提供された側として逆のこと、つまり幻想郷の虚構から歴史的事実に触れていくことをしてみたいと思います。

 

それは、1人の歴史好きとして平安時代の出来事が現在にもつながっていることを実感することと、史実の視点から妖々夢のストーリーをより深く味わうことの二点を可能にしてくれると思うからです。

 

そのために、妖々夢のストーリーから下記の疑問を設定し、文献にあたったり、「聖地巡礼」を行いながらそれらの問いに答えていきたいと思います。

 

 

西行はなぜ、桜の下で死にたいと和歌を詠んだのか?

 願わくは 花の下にて 春死なむ

 その如月の 望月の頃

 

これは西行が死ぬ間際に詠んだ和歌と思われがちですが、実はそうではありません。73歳で生涯を終える西行60代の頃に詠んだ和歌です。なぜ彼は、死期を悟る前から死に様の歌を詠んだのでしょうか?

 

まずは、西行の生涯について、彼の和歌を参照しながら触れていきたいと思います。

 

西行の死は当時の人々にどのような影響を与えたのか?

妖々夢のストーリーでは、歌聖の死に様に感動して多くの後追いが出たとされています。ですが、宗教的に重要な役職についていたわけでもない西行の死が、多くの人々に影響を与えることなどありえたのでしょうか?

 

桜と満月の下での死は同時代の人々にどのような影響を与えたのかについて探ります。

 

③「西行の娘」は西行寺幽々子なのか?

 

出家に際して、娘を蹴り飛ばして出て行ったとされる西行。蹴り飛ばされた娘は、のちに亡霊となる西行寺幽々子なのか?

 

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正直、この問いに関しては参照できる文献が少ないのですが、その分想像の余地があると置き換えて考察してみたいと思います。

 

 

 

この試みが、より遠く、より深いところへ私を連れていってくれることを願って。

 

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西行が没した弘川寺(2019年3月 筆写撮影)

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【シャニマス元ネタ解説】杜野凛世 優勝コミュ

先の記事では、凛世のコミュと万葉集の解説を行いました。今回は、万葉集を代表する歌人、柿本人麿の和歌について触れていきます。

万葉の時代から現代に至るまで、和歌の中で評価の高い人麿ですが、凛世のコミュにおいても彼の和歌は非常に重要な場面で登場するのです。

それは、Wing優勝後の二入での会話。ストーリーのフィナーレを飾るこのコミュに人麿の和歌が引用されているのです。

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今回は人麿と彼の和歌について触れていきますが、人麿という人物は大きすぎるので、私自身捉え切れていない部分が多々あります。もし、あなたが興味を持たれたのであれば、歌集を手に歌枕を訪れてみることをお勧めします。

 

宮廷歌人 柿本人麿

万葉集を代表する歌人、柿本人麿は7世紀後半から活躍した歌人です。

7世紀後半と言いますと、天智天皇の死語、政治のあり方をめぐって、大友皇子大海人皇子が対決するという壬申の乱が勃発しました。(672年)

この戦いに勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となり、天智天皇の急進的な政策を見直していくことになります。その結果として、天智天皇が開かれた大津京も荒廃していきました。

人麿には荒廃した大津京を訪れた時に詠んだとされる和歌があります。

 

楽浪の 滋賀の唐崎 さきくあれど 大宮人の 船待ちかねつ

(楽浪の滋賀の唐崎は幸にして以前のまま残されているが、

 宮廷人の船は戻ってこず、待ちくたびれている)

 

人麿にはこのように過ぎ去っていった人を悲しむ歌や、妻との別れを悲しむような歌が多いように感じます。

医療や情報通信がない古代では、死や別れは今よりも身近だったのでしょう。

 

ただし、人麿は悲しい歌ばかりを詠んでいたのではありません。天武天皇のあと、持統天皇の時代では、律令制度が整えられていきますが、その中で営まれる催事を喧伝するための和歌や、雄大な自然を詠んだ和歌が多くあります。

 

天皇の素晴らしい治世を詠んだ歌や、ダイナミックな自然の歌、死別の悲しみを詠んだ歌、この辺りが人麿の魅力かと思います。

 

和歌からコミュを読む

さて、今回取り上げる和歌は、自然を詠んだ歌のなかに含まれるかと思います。

 

天の海に 雲の波ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠るみゆ

 

訳をつけるまでもないかと思います。空を海に例え、そこに浮かぶ月や、星を船と林に喩えて読み、幻想的なイメージを創出していますね。私自身、この和歌を知ったのが高校生の時でしたが、本で読んだ時に、実際に見たこともない星空のイメージが広がったことを覚えています。

 

この和歌は人麿歌集に収録されているのですが、人麿歌集には他にも、

 

天の川 去年の渡りで 移ろへば 川瀬を踏むに 夜ぞ更にける

 

大船に 真楫繁貫き 海原を 漕ぎ出渡る 月人壮士

 

と言った、天の川をモチーフにした和歌がありますから、先の「天の海」歌の月の船には、彦星が乗っているのかもしれません。

 

このように、満点の星空を水面に例えて物語を展開する古代人の発想も素晴らしいですが、シャニマスのライターの発想力の凄さには驚かされます。

 

繰り返しになりますが、この和歌が登場するのは、Wing優勝後のコミュ。

 

私たちがライブ会場で振るペンライトを星の林に、

客席を照らすスポットライトを月の船に例え、

されに、舞台のアイドルの視点で7世紀に読まれた和歌を読み解くとは。

 

しかもこれ、シャニマスの開始時からあるコミュなんですよね。

 

【参考文献】

高松寿夫, コレクション日本人歌選001 柿本人麿, 笠間書院

中西進, 柿本人麻呂, 講談社学術文庫

 角川書店編, ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集, 角川ソフィア文庫

白洲正子, 私の百人一首, 新潮文庫

 

【こちらもどうぞ】

neuegeschichte.hateblo.jp

 

【関係ないけど】

滋賀県大津市にある近江神宮は、カルタ取りの全国大会や、ちはやふるの聖地として有名ですが、由緒としては 今回触れた天智天皇の遷都を記念して創祀されたとのこと。

 

2年前に写真を撮りに行った時は、シャニマスに繋がってくるとは思いもしませんでした。 

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【シャニマス考察】百人一首のススメ

凛世のコミュを考察するために、百人一首万葉集に手を出してみるのは非常に良い試みだと思います。凛世のコミュだけでなく、和歌の歴史に触れることは、非常に奥深く、面白いことですから。すでにお手元に歌集があるなら、それをぜひ読み進めていただきたい。ですが、凛世の元ネタを探るという意味では、お手元の歌集よりも、いいのがあるかもしれません。

 

さて、我らがアイドル杜野凛世は特技として百人一首を挙げています。

百人一首とは、鎌倉時代の初期を生きた藤原定家(1162~1241)が、宇都宮頼綱のために書いて送ったものとされています。宇都宮頼綱は藤原定家の息子の義理の父親にあたる人物。つまり、百人一首とは初めは、極めて私的な作品だったのです。

 

ですが藤原定家は「美の鬼」という異名があるほど、和歌に対する美意識が凄まじいお方ですから、この私的な作品はその中に、和歌の歴史や人物関係までをも含むことになったのです。そしてそれが後世に広がり、今ではかるた取りの競技にまでなりました。

 

ところで、一般的に百人一首といえば、定家が作ったとされる小倉百人一首をさすのですが、他にも同じ頃に成立されたとされる「百人秀歌」や、九代将軍足利義尚による「新百人一首」など、百人の一首づつを集めた歌集は数多く編纂されました。以下、この記事では特に断りの限り、百人一首は定家の小倉百人一首を指すものとします。

 

ところで、この百人一首に収録されている歌人で、凛世のコミュに引用されている例はどの程度あるのでしょうか。私が把握している限りでは下記のようになります。

(※モレがあればコメントで指摘いただければ幸いです)

 

 

・柿本人麿 「天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」 世界コミュ

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小野小町 「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを」

 朝コミュ 2番(解説はこちら

 

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元良親王 「詫びぬれば いまはた同じ 難波なる 身を尽くしてもぞ あはんとぞおもふ」微熱風鈴 みおつくし(解説はこちら

和泉式部 「とことはに あはれあはれは つくすとも 心にかなふ ものか命は」微熱風鈴 とことはに

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このうち、歌人と和歌の組み合わせが百人一首そのままなのは、元良親王の「詫びぬれば」しかありません。柿本人麿と小野小町和泉式部は、百人一首では別の和歌がとられているのです。

 

百人一首で採用されている和歌

三番 柿本人麿

「あし引の 山鳥の尾の しだりをの ながながし夜を ひとりかもねむ」

 

九番 小野小町

「花のいろは うつりにけりな いたづらに 我身よにふる ながめせしまに」

 

五十六番 和泉式部 

「あらざらむ この世のほかの 想ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」

 

このように、凛世のコミュで登場する和歌は、百人一首に限ったものではありません。例を挙げれば、下記の通りになります。

 

額田王 「漕ぎいでな」 優勝後コミュ

・紀野恵  「ゆめな忘れそ」 感謝祭

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与謝野晶子 「何となく」 凛世花伝 True

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これだけ見ると、平安時代から現代に至るまで、幅広い時代から採用されている。「嗚呼、これでは予習なんて無理ではないか」。そう思いませんでしたか?私も思いました。ある歌集を見つけるまでは。

 

平成新選百人一首

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これは、文字通り平成の時代(2002年)に編纂された、とりわけ若い人々を中心に、古典に親しむ切掛を提供することを目標とした歌集です。この歌集には、遥か古代のスサノオノミコトの和歌から、昭和天皇の御謹製までが収録されています。一方、小倉百人一首に収録されている和歌は平成新選百人一首では収録されていません。

 

例えば、小野小町は平成新選百人一首にも登場しますが、彼女の和歌は小倉百人一首に登場する「花の色は」とは別の和歌がとられているのです。

 

では、何が選ばれているのでしょうか?

平安時代の部の三首目にその答えはあります。

 

思ひつつ 寝ればや人の みえつらむ

夢と知りせば さめざらましを    小野小町

 

そう、凛世のコミュで採用されている和歌が収録されています。

またさらに、

 

記紀・萬葉時代の部、九首目

熟田津に 船乗りせむと 月待てば

潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   額田王

 

 

明治・大正・昭和時代の部、十二首目

なにとなく 君に待たるる ここちして

出し花野の 夕月夜かな   與謝野晶子

 

そう、小倉百人一首では元良親王しか採用されていなかったのに対し、平成新選百人一首では三首が採用されています。

 

つまり、平成新選百人一首の採用率は小倉百人一首3倍!!

ということは、平成新選百人一首予習効率3倍!!!!

 

さぁ、ここまで来れば、もはややることはただ一つ、これまでの凛世のコミュで採用されている和歌たちの中から、共通項をあぶり出し、平成新選和歌集をみていけば、今後シャニマス に登場しそうな和歌が見えてくるのではないでしょうか。

 

これまでの採用歌には、おおむね下記のような傾向がありそうです。

・女性が詠んだ和歌が多い

・恋を扱った和歌、中でも成就する前のものが多い

 

今後は、平成新選和歌集から出てきそうな和歌の解説も行っていきたいと思います。下記にリンクを貼っていきますので、時々覗いていただければ、私のモチベーションにもなりますので、どうぞよしなに。

 

第一回 若山牧水(?)

 

 

 

 

 

 

さて、せっかくですので、筆者と和歌の話をさせてください。私、フルカワPは杜野凛世のコミュに焦点を当てる前は、西行法師の和歌を追っていました。

 

追っていたというのは、平安時代を生きた西行法師が訪れたという場所を、歌集を片手に巡ったのです。北は岩手の平泉から、京都の名所、南は和歌山の熊野で、西行も修行をしたであろう中辺路の40Kmを歩き切りました。

 

これは、東方シリーズに登場する西行寺幽々子西行の娘であり、西行法師を知ることで、東宝シリーズの解釈が深まるのではないか?というテーマから始めた試みでした。

 

これらの「聖地巡礼」を行う中で、和歌とは単なる三十一文字の言葉遊びではなく、歌人の心を保存する器であると感じるようになりました。

 

歌人の人生を知り、訪れた場所で、詠んだ和歌に触れる、そうすることで、たとえ平安時代と現代で千年の時が隔てられていようとも、歌人の心に触れることができる。しかもそれは、歌人が詠んだ和歌そのものではなく、私を通して解釈されるのです。

 

例えば、仕事帰りに思い出す西行の和歌があります

 

惜しむとて 惜しまれぬべき 我が身かは

身を捨ててこそ 身をも助けめ

 

この和歌を私が口ずさむ時、出世と出家に悩んだ西行の心が再生される。ただし、それは西行の心がそのまま再生されるのではなく、疲れたサラリーマンの文脈で再生される。それは、私に西行が寄り添ってくれるような感覚です。

 

このようにして和歌に触れてみると、和歌というものは決して、一度きりの、すでに終わったものではなく、後世の人間が語り継いで、心を通わせていくことで新たなページを加えていくものであるように思えたのです。和歌は教養のためにただ暗記するものではない。

 

凛世のコミュの中で和歌が登場のは、彼女に古典の知識が豊富にあるからではありません。凛世が和歌を思い出している時、彼女の心は歌人の心に触れているのです。歌人の心に触れ、彼女が何を感じているか、何を思っているか、について考えることは、シャニマスのコミュをより深く味わうだけではなく、些細ながらも和歌の歴史に新たな解釈を付け加えているのです。

 

参考文献

宇野精一, 平成新選百人一首, 明誠社

吉海直人, 百人一首の正体, 角川ソフィア文庫

谷知子編, 百人一首(全), 角川ソフィア文庫 

白洲正子, 私の百人一首, 新潮文庫

中西進, 柿本人麻呂, 講談社学術文庫

梅田卓夫, 文章表現 四〇〇字からのレッスン, ちくま学芸文庫

【シャニマスコミュ考察】杜野凛世 朝コミュ 夢と知りせば

シャニマス のプロデュースに慣れ、メモ帳がなくても朝コミュでパーフェクトの選択肢を覚えてしまった。そんなプロデューサーは私だけではないはずです。ですが、パーフェクトの選択肢以外も、実はなかなかに味わい深い。

 

今回は、凛世の朝コミュ②であえてノーマルをとってしまった場合の彼女のセリフを、   コミュに登場する和歌から読み解いていきたいと思います。アイドル育成の面から言えばハズレと言える内容でも十分に楽しむことができる。それがシャニマス の素晴らしいところです。 

 

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共通コミュ Morning②

「夢と知りせば」からはじまる朝コミュの選択肢で「歌人と同じ経験ができたんだな」を選ぶと、凛世の返答は「はい、ですが、少し切ない歌なのです、できることならこの歌のようには」となり、ノーマルコミュとなってしまいます。

 

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この和歌を読んだ歌人は、三大美女としても名高い小野小町

 

和歌は

思ひつつ 寝ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

で、日本語訳は次のようになります。

 

あの人を思いながら眠りに落ちたので、夢に見たのだろうか。夢と知っていたのなら、そのまま覚めないでいたものを

 

幸せな夢から覚めてしまった気持ちを歌うこの和歌を、凛世はなぜ「少し切ない歌」と言ったのでしょうか?もう少し掘り下げてみていきましょう。

 

・不幸な美女

小野小町は9世紀ごろを生きたとされる女性ですが、その出自についてや本名はについては不明。美しく、恋多き人であったようですが、晩年は落ちぶれてしまったと伝えられています。類稀なる美貌を持ちながらも、幸せになれなかった女、それが小野小町なのです。

 

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また、彼女は和歌の名手で、凛世の特技でもある百人一首にも選ばれています。冒頭の和歌「思ひつつ 寝ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを」は古今和歌集に収録されていますが、この歌集が、小野小町に「不幸せな女」という強いイメージをつけ、凛世に「この歌のようなことには」と言わしめたのかもしれません。

 

古今和歌集

古今和歌集とは醍醐天皇(885~930)の勅命により制作された歌集です。天皇の勅命により作成される歌集を、勅撰和歌集といいますが、古今和歌集は最初の勅撰和歌集で、その後、応仁の乱まで歴代の天皇によって勅撰和歌集が編纂されました。

 

古今和歌集は全二十巻からなる歌集で、一 六巻が「四季」、十一 十五巻は「恋」をテーマに扱っています。他にも「旅」や「別れ」をテーマとした巻があります。

 

勅撰和歌集なだけあって、編者は構成にも注意を払っています。恋歌を扱った五つの巻も、ただ単に並べるのではなく、恋の段階で分類するという配慮がなされているのです。鈴木宏子著『「古今和歌集」の想像力』では恋歌五巻を下記のように分類しています。

 

恋一・・・逢わざる恋(その一)

恋二・・・逢わざる恋(その二)

恋三・・・初めての逢瀬とその前後

恋四・・・熱愛から離別まで

恋五・・・失われた恋の追憶

 

 ・和歌からコミュを読む

凛世が朝コミュで引用した小野小町の和歌は、恋二巻の冒頭を飾っているのです。巻のテーマは逢わざる恋、つまり二人が逢う(両思いになる)前の恋です。このことを踏まえれば、和歌の解釈はこのようになるのではないでしょうか。

 

あの人を思いながら眠りに落ちたので、夢に見たのだろうか。夢と知っていたのなら現実では会えない分も”そのまま覚めないでいたものを。

 

そう、この和歌はあの人と過ごす夢の世界の甘さを歌ったのではありません。「夢から覚めてはあの人と会うことができない」という現実の冷たさ、切なさを歌っているのです。

 

凛世はこの和歌の意味を理解していたために、「できることならこの歌のようには」と言ったのです。小野小町と違い、凛世は夢の外でも愛しい人に会うことができる。そこまで踏まえて、凛世は朝っぱらから「夢と知りせば」と言っているのです。ギュッとしたくなりますね。

 

ところで、このギュッとしたい感覚を味わうために、私たちはこのコミュでパーフェクトの選択肢、ひいては好感度+3の上昇を諦めなければならないのでしょうか?

 

そうではありません。和歌の解釈を踏まえると、パーフェクトコミュの凛世のセリフも、より一層重みがますはずです重い女っていいよね。

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さて、みおつくしの考察をはじめ、これまでみてきた通り、凛世のPに対するアプローチは和歌などの元ネタを通したものであり、直接的には届いていなかった感がありました。

ですが、GRAD編では大きく変えてきましたね。元ネタから読み解く、という楽しみ方は少し減ってしまいますが、これまでのすれ違いとは異なる展開に、今後も目が離せません。

 

参考文献

鈴木宏子, 「古今和歌集」の想像力, NHKブックス

角川書店編, 万葉集, 角川ソフィア文庫

小林大輔編, 新古今和歌集, 角川ソフィア文庫

白洲正子, 私の百人一首, 新潮文庫

日野原健司, 月岡芳年 月百姿, 青幻舎

 

番外編

今回扱った古今和歌集は最初の勅撰和歌集(帝によって制作が企画された和歌集)でした。タイトルに一文字加えた新古今和歌集という勅撰和歌集も存在します。

 

フルカワP個人的には、新古今和歌集が今アツい!

 

この和歌集は、三谷幸喜が脚本を手がける2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、ラスボスとなるであろう後鳥羽上皇により編纂されているのです。

 

また、この和歌集の中で最も多く取り上げられている歌人は、あるラスボスとも関わりが深いのです。

今後は、新古今和歌集の時代の記事も書いていきたいと思います。

シャニマス を始めとした現代の文化から、日本史の深みにハマっていく、そんな同好の士が増えることを願って・・・

記事ができたらリンクを下記に作成します。

 

 

 

【シャニマスコミュ考察】月岡恋鐘 月の浜辺で待っとって

本当に欲しいものって、何?

限定恋鐘のコミュといえばTRUEコミュの「愛してる」。このセリフで血糖値が爆上がりしたPは私だけではないはずです。

 

ですが、この「月の浜辺で待っとって」には、それ以外にも魅力が詰まっています。キーワードは「本当に欲しいもの」。

 

このコミュでは、恋鐘が欲しいものを自分で手にしていく様が描かれています。それも、あの有名な輝夜姫との対比の通じて。今回は、甘々なだけでない恋鐘の魅力について簡単に解説していきたいと思います。

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月岡恋鐘 月の浜辺で待っとって

あえて簡単な、と断りました。今回のコミュも前回に引き続き、元ネタを知ることで何か新しい解釈ができないか?と思ってアレやコレや考えてみたのですが、最終的にとある結論にぶつかります。それは、

 

「こがたん、多分そんなに考えていないよね」

 

この二次創作者泣かせの事実に対して、私はどう立ち向かえばいいのか。逆立ちして出た答えが、「考えていないのにやっちゃう恋鐘、かっこいいよね」です。そう、結論はそれだけ。でも、誰かのインスパイアになればと思い、以下にまとめていきたいと思います。

 

竹取物語について

竹取物語は8世紀後半から9世紀前半に製作されたとされる作品です。作者については伝わっていませんが、日本初めての創作物語とも評されています。この名も知れぬ作者は日本各地にある様々な伝承と、当時の藤原政権に批判的な態度と、彼自身のユーモアをミックスして物語を創造しました。

 

月から堕とされたかぐや姫が求婚者たちに無理難題を吹っかけ、最後には月へ帰っていくストーリーはみなさんご存知の通り。近年でも映画になったりゲームのモチーフになったりと、その魅力は1,000年以上経っても色褪せてはいません。

 

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コミュの中での竹取物語について

では今回はその竹取物語が登場するコミュ、月岡恋鐘の「月の浜辺で待っとって」をみていきましょう。

 

冒頭は彼女が平安調の着物を着て写真を撮るシーンから始まります。この写真のおかげで、彼女は小さいながらも、舞台で竹取物語輝夜姫を演じる機会に恵まれました。

ですが、コミュの中でPと恋鐘は初詣に行ったり、福袋を買いに行ったりと、終始イチャついているだけのように見えます

 

TRUEでも練習に見せかけて「愛してる」と囁き合う始末。

結局、プレイヤーである私たちには、恋鐘がどんな舞台を演じたのか目の当たりになりません。ですが、舞台の本番を見なくとも、このコミュの重要な部分はすでに描かれているのですそれを以下に見ていきましょう。

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イチャつく恋鐘とP

 

 

恋鐘が舞台で演じるセリフに、次のものがあります。

 

「私はこの世のものではありません。私を手に入れたくば、蓬莱の玉の枝をご持参ください」

 

このセリフ、実は竹取物語には登場し得ないセリフなのです。竹取物語において、輝夜が蓬莱の玉の枝を所望する相手は倉持皇子。一方、自分が月から来た人間であることを明かすのは求婚者の中では帝ただ一人なのです。そのため、恋鐘が舞台で演じたかぐや姫のストーリーにはアレンジが加えられていることが推察されます。

 

ところで、輝夜は本当に蓬莱の玉の枝が欲しかったのでしょうか。答えはNO。五人の貴公子たちからの求婚を体良く断るために、それぞれに難題をふっかけているに過ぎません。

 

こうしてみると、先に触れたセリフは原作に登場しませんが、輝夜というキャラクターを大変よく表現していると思います。自分は男たちに靡く気が全くないのに、月に帰らなくてはならないからと理由をすり替え、蓬莱の玉という無理難題を吹っかけて、求婚を体良く断っていく。容量が良くてどこか冷めた女。それが輝夜姫なのです。

 

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輝夜のセリフ

 

冷めた女である輝夜にとって、蓬莱の玉の枝も、その他の珍しい品々も、本当に欲しいものではありません。

 

では、彼女にとって本当に欲しいものとはなんだったのでしょうか?

この問いにスポットを当てた作品こそジブリの「かぐや姫の物語」です。

 

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スタジオジブリ かぐや姫の物語

この作品の中では、竹取の翁がかぐやを一人前の姫になるように教育を施す様が描かれます。天真爛漫な彼女は、次第に立派な姫君になるように「強制」されていくのでした。

 

やがて翁の努力が身を結び、都の中で評判になったために、貴公子らの求婚を受けることになったかぐや姫ですが残念ながらそこに愛はありません。貴公子達は、言うなればコンプリート欲、美人であればとりあえず契っときたい、の心で求婚してきたにすぎません。

 

彼らとの対比として、かぐやは農民として暮らしていた頃の飾らない感性、四季を愛でる心や、コンプリートの対象でない人としての扱いを心の中では求めていたのです。

 

ですが、彼女は欲しいものを一切手に入れることはできず、それらを地上にすべて残して、月の世界に帰っていくのです。静寂が支配する月の世界では、心が動くこともないため、もはや「欲しい」と言う感情すら湧きません……

 

さて、翻って「本当に欲しいもの」をキーワードに「月の浜辺」を読み解いていきましょう。

 

月の浜辺のコミュ

ここからは、ゲームのコミュ内で輝夜を演じる恋鐘にスポットを当てていきましょう。

 

コミュで恋鐘は様々なものを所望します。大トロに始まり、福袋・おみくじ、コミュの詳細説明はゲームや動画で確認できるので、ここでは省略させていただきますが、自分が本当に欲しいものを自分で勝ち取っていく様が描かれていることがわかります。

 

おみくじだって、普通の人は一、二回引いたら満足するところを、恋鐘は大吉を引けるまで粘る。

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大吉が出るまで引くけん!

これが普通のコミュで描かれていれば、「恋鐘ってちょっと変わってるよね」で済むのですが、自分の欲しいものは何一つ手に入れることが出来なかった輝夜がモチーフのコミュで描かれていることに大きな意味があると思うのです。

 

「月の浜辺で待っとって」において、恋鐘が輝夜を演じるコミュです、ですが、二人の「欲しいものに対するスタンス」は全く違う。しかも、恋鐘自身は「輝夜姫を演じているから」とか「作品がどうだから」といったことは一切考えることなしに、ありのままの自分で、本当に欲しいものを求め、自分で手に入れていく。

 

恋鐘がリーダーとしている限り、L'Anticaは自分たちの欲しいものを、自分たちの力で入れていくはずです。宇宙一のユニットにだってなってくれるでしょう。

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大トロ ひゃくおくえん

愛してるのセリフ

最後に、恋鐘の台詞であり、輝夜のセリフでもある「愛してる」について考えてみましょう。

 

見落とされがちではありますが、輝夜が帝の求婚を断った後、二人は文を交わす間柄になります。これは単なるメル友(死語)ではなく、平安の時代では、心が通い合っている、と言っても過言ではありません。

 

Trueコミュにおいて恋鐘は「愛してる」のセリフを練習していますね。このことから、舞台で輝夜は帝に対してその思いを伝えると類推されます。こちらも、古典の竹取物語にはないシーンで、この舞台は、輝夜と帝の結ばれなかった恋を描いていると推測されます。

 

結局、月に帰っていく輝夜。もし、愛してるを"I want you"に置き換えてみれば、ここでも輝夜は欲しかったものを手に入れられなかったことになりますね。

 

ここまで述べてきた通り、「月の浜辺で待っとって」では、恋鐘と輝夜は対比して描かれていました。はてさて、これから恋鐘は一体誰を手に入れるのでしょうか?

 

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月の浜辺にて

 

まとめ

 

月岡恋鐘の「月の浜辺で待っとって」は、一見するとPラブ勢の甘々な日常を描いたコミュに見えます。

 

ですが、輝夜姫との対比の中に、恋鐘の「自分の欲しいものを自分で手に入れる」性向を描いた読み応えのあるコミュとなっています。

 

おそらく、恋鐘本人は輝夜の事は一切気にすることなく、心のままに求めている。それこそが彼女のリーダーたる所以なのでしょう。

 

動画
今回もニコニコ動画に解釈MADを投稿しています。

こちらもどうぞよしなに。

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参考文献

角川書店編, ビギナーズ・クラシックス日本の古典 竹取物語(全), 角川ソフィア文庫

室伏信助訳, 注新版竹取物語, 角川ソフィア文庫

江國香織, 竹取物語, 新潮社

坂口理子, かぐや姫の物語, 角川文庫

和田博文, 月の文学館 月の人の一人とならむ, 筑摩書房

日野原健司, 月岡芳年 月百姿, 青幻社

ラフカディオ・ハーン、池田雅之編訳,小泉八雲東大講義録,角川ソフィア文庫

梅田卓夫,文章表現 四◯◯字からのレッスン,ちくま学芸文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【シャニマスコミュ考察】杜野凛世 微熱風鈴 みをつくし

微熱風鈴の「みをつくし」はただエモいだけか?

 

 

夕暮れの海岸線で、少女は意中の人と二人きり。沈む夕日があまりに美しかったからか、今なら勇気を出して自分の想いを告げられると思いました。でも、彼女にはできませんでした。

 

 

杜野凛世のコミュの中でも、みをつくしはかなりエモい。

ですが、それだけでしょうか。今回は、コミュタイトルと歴史的な事実を手掛かりに、その良さについて、深掘りしてみたいと思います。

 

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杜野凛世 微熱風鈴

 

澪標(みおつくし)について

コミュタイトルにもなっている澪標とは、古くは難波の海に建てられた、水深の浅い箇所を船乗りに注意する道しるべのことです。

この「澪標(みおつくし)」とは「身を尽くし(みをつくし)」と同音で、海水に身を浸しながら危険を知らせ続ける澪標は船乗りに身を尽くしている、ように見えなくも無いです。

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https://www.jalan.net/kankou/spt_22521aj2200023737/

次第に古代の人々は澪標を「何かに命を捧げること」という文脈の中で和歌に詠むようになっていきました。

 

澪標を読んだ歌で、最も有名なものは元良親王の謹製でしょう。

元良親王は890年に陽成天皇の第一皇子として生を受けました。本来であれば時代の天皇となるはずでしたが、生まれた時には既に父親が失脚しており、天皇の座は宇多天皇の元 に渡っていました。

天皇になれなかったその憂さを晴らすためか、もとより色好みのその性格ゆえかは不明ですが、彼は危険な恋に落ちていきました。

あろうことか元良親王宇多天皇の妃と通じてしまったのです。

ですが、天皇になれなかった男と天皇の妃の逢瀬が秘密のままで済むはずはない。結局二人の不倫は世間の明るみになり、大変なスキャンダルとなってしまいました。

 

その際に詠んだのが、彼の澪標の和歌です。

 

わびぬれば 今はた同じ 

難波なる 身をつくしても あわむとぞ思ふ

 

(現代語訳)

このようになってしまってはもうどうなっても同じこと

難波にあるという澪標のように、我が身を滅ぼしてでも貴女に逢いたいと思う

 

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元良親王

「献身」「身を滅ぼすほどの恋」「緊迫感」といったモチーフを含んだこの和歌は、凛世の特技でもある百人一首の二十番に収録され、今でも人々に親しまれています。

 

和歌を踏まえてコミュを読む

では、これらの歴史的事実を踏まえて、杜野凛世のコミュ・みをつくしを読んでみましょう。

 

ロケの帰り際、海岸を訪れた凛世とPはあるものを見つけます。

 

このあるものは選択肢になっており、数多くのPたん達を悩ませた難問ですが、前述の「献身」「身を滅ぼすほどの恋」「緊迫感」といったモチーフが現れているのは選択肢:タコノマクラを置いて他に無いと思います。

(「流木」も近いけど、そこに緊迫感はない)

 

タコノマクラを選んだ場合、Pは水切りに興じ始め、それを見守る凛世は、Pが4回連続の水切りに成功したら「ある人にあること」を告げるという。

 

読者各位はご存知と思いますが、「ある人」こそPであり、「あること」とは凛世が彼を慕っていることに他ならなりません。

 

つまり凛世はPに告白するつもりでいるのですが・・・結局水切りは失敗し、Pに思いを告げることはできませんでした。

 

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確かにこのコミュはいい。

 

夕暮れの海岸線という最高のロケーションに加え、少女が叶わない恋を乗り越えていく様はそれだけで美しく映えます。

 

ですが、元良親王の和歌をふまえた後で見直してみれば、このコミュは美しいだけではなく、もっと他のことが描かれているような気がしてきます。

 

澪標の和歌を踏まえれば、凛世の告白はただPに好意を告げる程度のものでははありません。

 

凛世が伝えたかった「あること」とは単なる告白ではなく、Pに「みをつくす」=「人生を捧げる」もはやプロポーズのようなものであり、それはPとアイドルの熱愛というスキャンダルによってアイドルという「身を滅ぼす」ことも了承済みであることを示している、と見ることもできます。

 

そう捉えてみれば、微熱風鈴のやりとりは、ただなんとなくエモいだけのコミュではなくなってきます。無邪気に水切りに興じるPとは対照的に、凛世の中で非常に大きな感情のうねりが生じていた、そのコントラストこそ微熱風鈴・みをつくしのキモだと思えてくるのです。

 

アイドルとしての身を尽くしても構わないという覚悟を秘めながらも、凛世には告白の機会が与えられませんでした。それは、例えば「いける」と思っていた相手からフラれてしまったような感じでしょうか。彼女も意外な結末に対する虚無感を感じていたことでしょう。

 

ですが、そんなことは表情にも出さず、凛世は「今はまだいいのです」と言います。この健気な態度だけでもギュッとしたくなってきますが、抱きつこうとしているうちに疑問が生じてきました。

 

 

口にまで出かけた澪標の告白を、凛世は、なぜ飲み込むことができたのでしょうか。

 

 

もし、凛世の身を尽くしの覚悟が成就した場合、彼女のアイドル生命は終わってしまう可能性があり、その場合は放課後クライマックスガールズはもちろんのこと、ファンにとっての悪い影響は避けられないでしょう。

 

ですが、今ここで身を尽くさなければ、放クラは存続するし、アイドルとしてPの側に居続けることができる。

 

それは凛世だけでなく、彼女を取り巻く様々な人々にとってもっとも良い形となるでしょう。そう思ったが故に、凛世は「まだ良い」と言うことができたのだと私は思います。

 

どうでしょうか、想ひいろはでPのことしか見えていなかった頃と比べると、大きな成長を感じませんか。

 

私は、微熱風鈴のみをつくしがあって初めて、凛世は自分がアイドルであり、Pはプロデューサーであり、自分の周りにユニットの仲間たちやファンの存在があることを認識できたと思うのです。

 

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みをつくしの海岸



 

まとめ

杜野凛世の2枚目に実装されたカードとなるこの微熱風鈴は、一見すれば儚く淡い恋が描かれている良コミュです。

 

ですが、和歌を踏まえて読めば、そこには凛世の大きな感情のうねりがあり、彼女は初めて自分がアイドルであることを認識したのでした。

 

みおつくしの後に「恋に恋する」少女はもういない。凛世は一歩大人になって、アイドルとしてPと向かい合うことを始めて行くのです。

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今日の大阪湾に澪標は既に無い

 

第1回シャニマス投稿祭に参加しています。

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参考文献

白洲正子,私の百人一首新潮文庫

吉海直人,百人一首の正体,角川ソフィア文庫

谷知子編,ビギナーズ・クラシックス日本の古典 百人一首(全),角川ソフィア文庫

板野博行,眠れないほど面白い百人一首,王様文庫

小林大輔編,ビギナーズ・クラシックス日本の古典,新古今和歌集

角川書店,ビギナーズ・クラシックス日本の古典,万葉集

ラフカディオ・ハーン、池田雅之編訳,小泉八雲東大講義録,角川ソフィア文庫

梅田卓夫,文章表現 四◯◯字からのレッスン,ちくま学芸文庫

中村精成,世界一わかりやすいデジタル一眼レフと写真の教科書,株式会社インプレス

月足直人,プロが教えるFinal Cut Pro Xでデジタル映像編集講座,ソーテック社

大貫思水,書道技法講座 楷書編,知道出版

ジェフェリー・マイケル・ベイズ,ハリウッド映画の実例に学ぶ映画政策論 BETWEEN THE SCENES, 玄光社