西行の歴史を歩く 出家と法金剛院
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃
この通り和歌を読み、東方妖々夢の西行妖誕生のきっかけを作った西行法師、
今回は京都は嵯峨野線の花園にある法金剛院から、彼の若かりし頃にスポットを当てていきましょう。
西行の俗名は佐藤義清、代々武士の家系で彼自身も北面の武士(宮中の警護隊)として勤めてました。北面武士は武芸だけでなく、容姿の良さや教養も必要とされるぶん、将来の成功も望める役職であります。
あの平清盛も若かりし頃に北面武士であったようです。天皇に近い役職という有利が、平家の時代を作る下支えになったことでしょう。
さて、将来を確約された仕事についていた西行ですが、北面武士を突如として辞めて出家してしまいます。その理由は定かではありません。同僚の突然死によって無常感を悟った説や、ある高貴な女性からフラれたショックによるとする説が有力ですが、これら様々な思いが西行の中で渦巻いていた結果であり、一つの原因に収束できないというところが実態かと思います、なにせ、出家したのは23歳、悩み多き年代ですから。
ところで西行をフッたとされる高貴な女性は藤原障子(後の待賢門院)であると言われています。彼女は、白川上皇の孫娘で、鳥羽天皇の妃であり、崇徳天皇の母親にあたる高貴な女性です。
障子の人生は祖父である白河上皇の時代に絶頂を迎えましたが、それも長くは続きませんでした。白河上皇の崩御後、鳥羽天皇の寵愛が別の女性(美福門院)に移ってしまったのです。
美福門院との権力闘争に敗れた彼女は、自信が建立した法金剛院で出家し、そのまま生涯を終えることとなります。
障子が出家して待賢門院となる頃には、かつての義清も出家し、西行となっていました。お互いに出家した後も、2人の交流は続いてた様で、待賢門院の従者である堀川局と西行が交わした和歌が残っています。
尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし
花と散りにし 君が行方を 西行
(尋ねても風の便りにも聞くことができない、
花のように散ってしまった待賢門院の行方は)
吹く風の 行方知らする ものならば
風と散るにも 遅れざらまし 堀川局
(吹く風が行方を知らせてくれるのならば、
遅れずに後をついていくのに)
美貌だけでなく、周囲に好かれる人となりの持ち主であったことが偲ばれます。
法金剛院は京都は嵯峨野にある律宗の寺院です。京都駅からJR嵯峨野線から徒歩で10分ほどの花園駅で降りれば、お寺はすぐそば。
ここ法金剛院は待賢門院が信仰していた法華経の世界を現世に再現したかの様に、四季折々の花々が庭園を飾ります。特に見どころななのは、3月下旬の桜と6月下旬の蓮。
四季折々の華が楽しめるのに関わらず、あまり混雑していないところも、カメラ好きにはたまりません。
待賢門院桜と呼ばれる桜は、濃いピンクに咲きます。名前の通り、本人もさぞ妖艶な方だったのでしょう。
法金剛院の1番の見どころは蓮のシーズンで、蓮にはこんなにも種類があったのかと驚かされます。
泥中にあっても清楚な花を咲かせる蓮は、仏教における悟りのモチーフ。失意のうちにあった待賢門院の祈りは今でもここに根付いています。
コロナの影響で閉まっていましたが、7月11日から拝観再開するそうです。
詳しくは下記リンクからご覧ください。
この時期ならギリギリですが蓮を見れるかもしれません
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