西行の歴史を歩く 花の下にて
2018年3月、寮の近くにあった寺院をぶらりと訪れてみると、出迎えてくれたのは満開の桜。まだ少し寒い風が吹く中で、私はポケットのウォークマンから桜の季節らしい曲を探しました。いくつか目に止まった中で、一番しっくりきたのは「幽雅に咲かせ墨染めの桜」のジャズアレンジバージョン。東方妖々夢のクライマックスを飾る曲を聴きながら、私は平安時代の坊さんについて想いを馳せ始めたのです。
史実と虚構のはざまに
東方妖々夢の主軸となる妖怪桜、西行妖。その誕生の発端となったのは歌聖が詠んだある和歌でした。
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃
この和歌の通りに歌聖は世を去り、その死に様に感動した人々が同じ桜の下で後を追ううちに、ただの桜が妖怪桜になってしまった・・・
これはゲーム・東方妖々夢のプロローグです。
ここに登場する「ある歌聖」とは平安末期に実在した西行法師。
彼は日本各地を旅しながら、数々の和歌を残しました。百人一首に選ばれている、以下の歌が有名です。
嘆けとて 月やはものを 思はする
かこちがおたる わが涙かな
冒頭の「願わくは」歌は、西行の最期の和歌として知られています。彼はこの和歌の通り、釈迦入滅と同じ月に、満開の桜の下で生涯を終えました。命日は釈迦と1日違いだったとされます。
ここまでは史実、つまり実際に起きた出来事です。
この史実をもとに、ゲームの原作者は「人々が感動し、後追いまで出て、妖怪桜が誕生した」と架空のストーリーに繋ぎました。
ですが、実際にそんなことは起こり得たのでしょうか?現代の感覚で考えてみましょう。例えばローマ教皇やダライ・ラマが亡くなった時、私たちはテレビを通じて、生きていく希望ごと失われてしまったかのような人々が、悲しみにくれて涙を流す様を目の当たりにします。確かに1人の死は多くの人々に影響しうる。
一方、西行は宗教上の要職にあったわけではありません。当然、その死がテレビで報道されるはずもない。西行のひっそりとした死が、同時代の人々に影響を与えることが可能だっのでしょうか?可能だとしたら、実際にどんな影響があったのか?
私はこのように疑いながらも、実際にそういうことがあったと史実に残されているのではないかと思ったのです。原作者はその史実を手がかりに作品を想像した。そうでないと、このプロローグが非常に突飛なものになってしまう。
私が勝手にあると決めつけた史実は、そのとき何か魅力的なものに思えました。自分はまだ知らないけれども、確実にあるハズのもの。それを追ってみることで、これまで目にしたことのない光景、知らなかった事実に触れることができるのではないか?
それは私の東方妖々夢を見る目すらも変えてしまうのではないか?そんな気がして、西行の跡を追い始めたのです。
西行の生き様
西行の死に様を知るためには、西行の生き様を知らなければならない。
そう考えて、様々な書籍に当たり、彼が和歌を詠んだ場所を訪れていきました。そうするうちに、西行の人生がぼんやりと見えてきました。
西行は僧侶でありながら、旅と和歌に行きた人でした。奥州・平泉や紀州・熊野、四国・讃岐など様々な場所を訪れ、和歌を読んでいます。
西行にとって、和歌とはなんだったのでしょうか?
それは、一言でいえば和歌即真言。西行にとって、和歌とは仏教の真理を語るための言葉でした。
和歌のことをそんなふうに考えている人は西行以外にいませんでした。なので彼と同時代の人たちは、西行の和歌には不思議な力が宿ると考えたのです。
実際に、西行は和歌の力で不思議なことを起こしました。
例えば、保元の乱で負けてしまい、配流となった崇徳院という方がおられました。流された先の讃岐で崇徳院は生涯を終えるのですが、絶望のあまり怨霊となった、と都の人々が噂するようになります。噂には尾鰭がついて、とうとう怨霊を見た、という人まで出る始末。
西行は、生前の崇徳院と面識がありましたから、讃岐を訪れて彼の魂を慰める和歌を読みました。
よしやきみ 昔の玉の 床とても
かからんのちは 何にかはせん
(我が君よ もうよしてください 昔の様に玉座についておられても
この様なことになってしまっては 一体何になるのでしょうか)
西行が讃岐に渡り、崇徳院の魂を鎮める和歌を読んだことが都にも流布すると、怨霊の噂もピタリとやんだのです。
実際に不思議な力があったのか、それとも人々が都合よく解釈したのかは不明ですが、西行の和歌が仏教の真言であり、不思議な力が宿ると当時の人々が本当に思っていたことは事実です。そして、その極め付けがこの和歌です。
願わくは 花の下にて 春しなむ
その如月の 望月の頃
和歌の通り、西行は満開の桜と満月の下で、しかも釈迦と1日違いで生涯を終えました。
西行和歌の不思議な力で、西行は望んだ通りの死を迎えた。そのことは都の人々を多いに感動させたようです。歌壇の重鎮・藤原俊成、天台宗座主・慈円と寂蓮、藤原定家と公衡が西行の最期と和歌についてやりとりを交わしているのが残されています。
後追いはあったのか?
ここまで見てきた通り、西行が和歌の通りに死んだことは、都の人々を大いに感動させたことは間違いありません。
でも、東方妖々夢のストーリーにあるように、後追いはあったのでしょうか?
結論から言うと、私はほぼなかった、と思っています。
そのことについて、弘川寺から考えてみます。
弘川寺は河内にある寺院で、西行終焉の地として知られているだけでなく、春は桜が、秋は紅葉が美しい、知る人ぞ知るスポットでもあります。
現代の我々は西行が弘川寺で亡くなったことを知っていますが、西行がどこで亡くなったのかについては、江戸時代まではっきりしていませんでした。西行は平安時代末期の人ですが、鎌倉時代にはすでに、弘川寺とは別の寺が西行終焉の地として、誤って認識されていた様です。
これこそ、西行の後追いがなかったことの証拠ではないでしょうか。もし、妖々夢のストーリーのように、多くの後追いが出たのであれば、その事実ともに、西行が弘川寺で死んだことも残されるはずです。ですが、実際にはそのようなことはなかった、故に平安から鎌倉の動乱の中で、弘川寺のことをみんなが忘れてしまった、そんな気がするのです。
それでも信じられない方は、西行が亡くなった3月下旬頃に弘川寺を訪れてみるといいでしょう。静かな、それでいて寂しさを感じさせない山里の中に弘川寺はあります。麗かな春の日差しの中、桜だけがはらはらと散っていく。時々、遠くのほうでホトトギスの鳴き声が聞こえて来る。
春の弘川寺にいると、西行が弘川寺を終の住処に決めたのもわかる気がします。彼は世を捨てて好きに和歌を詠むだけの平穏な人生を送ったのではなかった。崇徳院や木曽義仲、平清盛・・・動乱の中で、多くの人々が権力を極め、そしてその座から転げ落ちて行った。西行自身も生き残ることと、和歌を次の時代に引き継ぐことに必死だった。そんな彼が、自分の仕事を全てやり切った上で、最後の場所に選んだのが弘川寺なのです。
この静かな空間には後追いなんて似つかわしくない。
西行の願わくはの和歌を詠んだ。でも、その和歌は死ぬことそのものを詠んだのではなかった。
桜が満開の弘川寺で、私はそう確信することが出来たのです。
でも私は冒頭で、ほぼなかった、と書きました。ほぼなかった、と言うことは例外があったのです。この例外も、現地に行ったからこそ知ることが出来ました。せっかくなので紹介させていただきます。
唯一の例外、それは江戸時代の僧侶でした。名前を似雲といいます。大の西行好きで、「今西行」の異名を取る彼は、鎌倉時代に分からなくなっていた西行終焉の地が弘川寺であることを突き止め、自らも弘川寺で生活をするようになります。
彼は弘川寺に住むだけではなく、その周囲に桜の木を植えました。弘川寺は主にソメイヨシノと山桜を見ることが出来ますが、ソメイヨシノは江戸時代に大流行した品種ですから、私の写真に写る桜も似雲が植えたものかもしれません。
その似雲は、自らが発見し、桜で飾った弘川寺で生涯を終えました。似雲の墓は、西行の墓の近くに残されています。その人生はさぞや満足のいくものであったことでしょう。西行の非常に面白い点は、このように後世の人々が西行の和歌を再現しようとするところです。これは別の機会に書きます。
以上、見てきた通り、西行は宗教上の要職にはありませんでしたが、その彼の和歌には不思議な力が宿ると考えられていました。その和歌の通りの彼の死は、多くの人々を感動させた。でも、後追いと言えるようなものは似雲を除いてほぼなかった。
ですから、弘川寺まで出向いて西行妖に出会すなんてことはありません。コロナが落ち着いたら、弘川寺で西行に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか?
主要な参考文献
西行を描きながらも、辻邦生の世界観が前面に押し出されていて読み応えのある一冊。
西行の生涯を一通りなぞるのであればこれ。辻の小説らしく風景の描写がとても美しい。
西行をテーマに各地を旅してみようと思わせてくれた一冊。
知識のある人はこういうことを考えながら旅をするんだなぁ、というのがわかる。
教養のある白洲先生と違い、教養のない私は何を書くべきか、とか考えたりもした。
西行の和歌に触れてみたい方はこちら。
本書以外にも、角川ソフィアのビギナーズクラシックスにはいい本が多く、
とりあえずこれから読んでおけば間違いないとオススメできる一冊。
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