【シャニマスコミュ考察】黛冬優子 ダブルキャストと胡蝶の夢
個人が複数個のアカウントを持ち、フェイクニュースが蔓延る現代。真実と虚偽の境界がどんどん曖昧になっているような錯覚に包まれる。大変な時代なんです、と2000年以上昔を生きた荘子に相談したら、一笑に付されそうです。彼は、自分の人生は蝶の見ている夢かもしれない、と考えるような人でした。もとより真も偽も存在しない。そんな世界の中で、猫被りの彼女が見せてくれる「本当の素顔」とは、本当の彼女なのでしょうか?
待望の2週目冬優子実装
7月21日に待望の2週目冬優子が実装。4週目三峰の情報がほぼ無い中ではありましたが、5人中4人が限定とかないだろう、とタカを括って冬優子をお迎えしました。それほどまでに、ガチャ演出の冬優子がカッコ良い。
また、フェス演出も素晴らしい。サイバーパンクの世界の中で、和装に身を包んだストレイライト。さらに、世界の哲学が引用されているではありませんか。元ネタの考察が何より好きな私にとって、2週目冬優子は無視できる訳なかったのです。
今回は、2週目で引用されている中でも比較的わかりやすい「胡蝶の夢」から、冬優子の魅力に迫っていきたいと思います。
荘子の見た夢
昔の中国に、荘子という思想家がいました。ある日、彼がうたた寝していると、蝶になってひらひらと舞う夢を見ました。気持ちよく中を舞う夢から覚めた後で、荘子はこう考えました。「俺は今、蝶の夢から覚めて人間に戻ったと思っている。でも、実は、人間に戻っていると思ういまこの時こそ、蝶が人間の夢を見ているのではないか?」
これは胡蝶の夢と言って、いまだに語り継がれている荘子のエピソードです。今、人間として生きている自分が、胡蝶の見る夢ではないことを否定できない。それでは、私たちは何も信じることのできない虚偽の中に生きているのでしょうか?
個人の解釈によりますが、荘子が伝えたかったのは、そうではないと思います。
自分が蝶になっている時には、それが夢かどうかなんて考えずに蝶らしく生きること。その場その場で、その瞬間を肯定して生きる。その一方で、蝶が見ている夢にすぎぬ、と執着せずに生きる。
二律背反しているようですが、肯定しつつも執着しない生き方、有にも無にも、真にも偽にも囚われない生き方を解いたのではないでしょうか。
真と偽、これはストレイライト、特に冬優子を見ていくには重要なワードです。
2週目ストレイライト
ご存知の通り、冬優子は最大限に猫をかぶってアイドルをしている。彼女の笑顔は作り物でしかない、WING編のカメラマンとのやり取りで冬優子は「本物の笑顔」について葛藤することになります。
「本当の自分、本当の笑顔」に葛藤した冬優子が、GRAD編でどっちも本当だから、と言ったのは印象的です。
冬優子はもともと自分が性格の悪いことを自覚しており、みんなの前では綺麗な自分を「演じて」いたのです。演じている「ふゆ」は肯定的な真の自分、演じていない「冬優子」は否定的な偽の自分と言えるでしょう。
しかし、アイドルの活動を通して、彼女の中の認識が変わってきたのです。真偽もない、どちらも本物だから。これは、「胡蝶の夢」の深い理解に似ているように見えます。
ちょっと脇に逸れて
今回は冬優子の考察ですが、せっかくなので2週目のあさひと愛依についてもちょっとだけ言及しておきます。
荘子が「胡蝶の夢」で伝えた、「執着せず、かつ肯定しつつ生きる」こと、これは仏教の思想とよく似ています。中国に生きた荘子がインドに生きたブッダの思想に触れる機会はなかったかと思いますが、同じような境地にたどり着いたことは大変興味深いです。
執着せずかつ虚無に囚われず生きることは、仏教では「空即是色 色即是空」や「諸行無常」といった言葉で表されますが、これらを英訳すると下記のようになります。
ALL IS VANITY(色即是空)
ALL THINGS MUST PASS(諸行無常)
もっと深掘りして考察してみたい方は、参考文献をご参照ください。
最後に、これまでと違ったストレイライトを
煩悩まみれの凡夫がわかったように仏教の紹介をするのはこの程度にしておきます。
「どちらも本物だから」と胡蝶の夢のように真偽に囚われず、肯定することに成功した冬優子に対して、我々凡人にとっては、真偽から抜け出すことは相当に難しいことです。
「胡蝶の夢」「色即是空・空即是色」と唱えてみたところで、上司はウザいし、仕事は辛いし、腹は減る。単語の意味を知っていたからとって、そのままで悟りは得られません。
そう、凡夫である私はいまだに、冬優子が「自分の前では、ファンの前で見せない本当の自分を見せてくれている」と真偽に囚われている。一方、冬優子が見せるファンの前の顔、プロデューサーの前の顔、あるかもしれない他の顔、これら全てが冬優子にとって本物であり、もはや真偽そこには真偽はないのです。
私にとって、この対比が何か魅力的なものに思えてきました。
ニコニコ動画でMADを見ていると、ストレイライトにはかっこいい動画が多い印象を受けます。そのカッコよさは例えばL'Anticaとは違ってクールなカッコよさではありません。ストレイライトには越えるべき「壁」があり、葛藤があり、それとガムシャラにぶつかっていく。それは、少年マンガ的な熱さを持ったバトルなのです。
それはストレイライトの魅力の一面です。ですが、彼女たちの魅力はそれだけでしょうか?
今回、「胡蝶の夢」を中心に見てきましたが、そこに描かれているのは真偽を超えてしまった先にいる冬優子でした。対して、彼女のプロデューサーである私は、彼女が本当の自分を見せてくれていると、まだ真に囚われている。
そうやって捉えてみると、「壁」は今度はこちら側に存在するのです。冬優子たちはその「壁」をもう超えてしまって、圧倒的に先に進んでしまっていて、囚われのないサイバーパンクの世界にいる。
そして向こう側から、こちらを嘲笑う、まだ真偽に囚われているの?と。圧倒的な高みに到達してしまっていて、もはや何にも囚われない(電子上のデータのように時間にも、空間にも囚われない)。そんなカッコよさもあり得るのではないでしょうか?
こう考えながら、久しぶりにMADを作っています。でも、作成しながらふと思うのです。果たして、これは本当に冬優子なのだろうか?と。
参考文献
プロットの段階では、般若心経に登場する「空即是色」をメインに据える予定でした。
簡単に理解できたとは口を裂けても言えませんが、著者の語り口は、
人生についても考えさせられます。
2週目ストレイライトを仏教から読み解く上で、
障害となったのはヘラクレイトスの「パンタ・レイ」と荘子の「胡蝶の夢」でした。
禅僧による荘子の解説である本書は、特定の宗派からではなく、
その内容から考えるヒントになりました。
仏教の真理に対して、和歌からアプローチした西行は、
真理を語る中でこんな和歌を残しました。
山ふかく さこそ心は かよふとも
すまであはれは 知らんものかは
(山ふかく どんなに心は 通っていても
住んで心を澄ませずには、「あはれ」を知ることは出来はしない)
知識だけでわかったような文章を書くことを戒めると同時に、
「悟っていないプロデューサー」という視点の発想をここから得ました。
西行の歴史を歩く 花の下にて
2018年3月、寮の近くにあった寺院をぶらりと訪れてみると、出迎えてくれたのは満開の桜。まだ少し寒い風が吹く中で、私はポケットのウォークマンから桜の季節らしい曲を探しました。いくつか目に止まった中で、一番しっくりきたのは「幽雅に咲かせ墨染めの桜」のジャズアレンジバージョン。東方妖々夢のクライマックスを飾る曲を聴きながら、私は平安時代の坊さんについて想いを馳せ始めたのです。
史実と虚構のはざまに
東方妖々夢の主軸となる妖怪桜、西行妖。その誕生の発端となったのは歌聖が詠んだある和歌でした。
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃
この和歌の通りに歌聖は世を去り、その死に様に感動した人々が同じ桜の下で後を追ううちに、ただの桜が妖怪桜になってしまった・・・
これはゲーム・東方妖々夢のプロローグです。
ここに登場する「ある歌聖」とは平安末期に実在した西行法師。
彼は日本各地を旅しながら、数々の和歌を残しました。百人一首に選ばれている、以下の歌が有名です。
嘆けとて 月やはものを 思はする
かこちがおたる わが涙かな
冒頭の「願わくは」歌は、西行の最期の和歌として知られています。彼はこの和歌の通り、釈迦入滅と同じ月に、満開の桜の下で生涯を終えました。命日は釈迦と1日違いだったとされます。
ここまでは史実、つまり実際に起きた出来事です。
この史実をもとに、ゲームの原作者は「人々が感動し、後追いまで出て、妖怪桜が誕生した」と架空のストーリーに繋ぎました。
ですが、実際にそんなことは起こり得たのでしょうか?現代の感覚で考えてみましょう。例えばローマ教皇やダライ・ラマが亡くなった時、私たちはテレビを通じて、生きていく希望ごと失われてしまったかのような人々が、悲しみにくれて涙を流す様を目の当たりにします。確かに1人の死は多くの人々に影響しうる。
一方、西行は宗教上の要職にあったわけではありません。当然、その死がテレビで報道されるはずもない。西行のひっそりとした死が、同時代の人々に影響を与えることが可能だっのでしょうか?可能だとしたら、実際にどんな影響があったのか?
私はこのように疑いながらも、実際にそういうことがあったと史実に残されているのではないかと思ったのです。原作者はその史実を手がかりに作品を想像した。そうでないと、このプロローグが非常に突飛なものになってしまう。
私が勝手にあると決めつけた史実は、そのとき何か魅力的なものに思えました。自分はまだ知らないけれども、確実にあるハズのもの。それを追ってみることで、これまで目にしたことのない光景、知らなかった事実に触れることができるのではないか?
それは私の東方妖々夢を見る目すらも変えてしまうのではないか?そんな気がして、西行の跡を追い始めたのです。
西行の生き様
西行の死に様を知るためには、西行の生き様を知らなければならない。
そう考えて、様々な書籍に当たり、彼が和歌を詠んだ場所を訪れていきました。そうするうちに、西行の人生がぼんやりと見えてきました。
西行は僧侶でありながら、旅と和歌に行きた人でした。奥州・平泉や紀州・熊野、四国・讃岐など様々な場所を訪れ、和歌を読んでいます。
西行にとって、和歌とはなんだったのでしょうか?
それは、一言でいえば和歌即真言。西行にとって、和歌とは仏教の真理を語るための言葉でした。
和歌のことをそんなふうに考えている人は西行以外にいませんでした。なので彼と同時代の人たちは、西行の和歌には不思議な力が宿ると考えたのです。
実際に、西行は和歌の力で不思議なことを起こしました。
例えば、保元の乱で負けてしまい、配流となった崇徳院という方がおられました。流された先の讃岐で崇徳院は生涯を終えるのですが、絶望のあまり怨霊となった、と都の人々が噂するようになります。噂には尾鰭がついて、とうとう怨霊を見た、という人まで出る始末。
西行は、生前の崇徳院と面識がありましたから、讃岐を訪れて彼の魂を慰める和歌を読みました。
よしやきみ 昔の玉の 床とても
かからんのちは 何にかはせん
(我が君よ もうよしてください 昔の様に玉座についておられても
この様なことになってしまっては 一体何になるのでしょうか)
西行が讃岐に渡り、崇徳院の魂を鎮める和歌を読んだことが都にも流布すると、怨霊の噂もピタリとやんだのです。
実際に不思議な力があったのか、それとも人々が都合よく解釈したのかは不明ですが、西行の和歌が仏教の真言であり、不思議な力が宿ると当時の人々が本当に思っていたことは事実です。そして、その極め付けがこの和歌です。
願わくは 花の下にて 春しなむ
その如月の 望月の頃
和歌の通り、西行は満開の桜と満月の下で、しかも釈迦と1日違いで生涯を終えました。
西行和歌の不思議な力で、西行は望んだ通りの死を迎えた。そのことは都の人々を多いに感動させたようです。歌壇の重鎮・藤原俊成、天台宗座主・慈円と寂蓮、藤原定家と公衡が西行の最期と和歌についてやりとりを交わしているのが残されています。
後追いはあったのか?
ここまで見てきた通り、西行が和歌の通りに死んだことは、都の人々を大いに感動させたことは間違いありません。
でも、東方妖々夢のストーリーにあるように、後追いはあったのでしょうか?
結論から言うと、私はほぼなかった、と思っています。
そのことについて、弘川寺から考えてみます。
弘川寺は河内にある寺院で、西行終焉の地として知られているだけでなく、春は桜が、秋は紅葉が美しい、知る人ぞ知るスポットでもあります。
現代の我々は西行が弘川寺で亡くなったことを知っていますが、西行がどこで亡くなったのかについては、江戸時代まではっきりしていませんでした。西行は平安時代末期の人ですが、鎌倉時代にはすでに、弘川寺とは別の寺が西行終焉の地として、誤って認識されていた様です。
これこそ、西行の後追いがなかったことの証拠ではないでしょうか。もし、妖々夢のストーリーのように、多くの後追いが出たのであれば、その事実ともに、西行が弘川寺で死んだことも残されるはずです。ですが、実際にはそのようなことはなかった、故に平安から鎌倉の動乱の中で、弘川寺のことをみんなが忘れてしまった、そんな気がするのです。
それでも信じられない方は、西行が亡くなった3月下旬頃に弘川寺を訪れてみるといいでしょう。静かな、それでいて寂しさを感じさせない山里の中に弘川寺はあります。麗かな春の日差しの中、桜だけがはらはらと散っていく。時々、遠くのほうでホトトギスの鳴き声が聞こえて来る。
春の弘川寺にいると、西行が弘川寺を終の住処に決めたのもわかる気がします。彼は世を捨てて好きに和歌を詠むだけの平穏な人生を送ったのではなかった。崇徳院や木曽義仲、平清盛・・・動乱の中で、多くの人々が権力を極め、そしてその座から転げ落ちて行った。西行自身も生き残ることと、和歌を次の時代に引き継ぐことに必死だった。そんな彼が、自分の仕事を全てやり切った上で、最後の場所に選んだのが弘川寺なのです。
この静かな空間には後追いなんて似つかわしくない。
西行の願わくはの和歌を詠んだ。でも、その和歌は死ぬことそのものを詠んだのではなかった。
桜が満開の弘川寺で、私はそう確信することが出来たのです。
でも私は冒頭で、ほぼなかった、と書きました。ほぼなかった、と言うことは例外があったのです。この例外も、現地に行ったからこそ知ることが出来ました。せっかくなので紹介させていただきます。
唯一の例外、それは江戸時代の僧侶でした。名前を似雲といいます。大の西行好きで、「今西行」の異名を取る彼は、鎌倉時代に分からなくなっていた西行終焉の地が弘川寺であることを突き止め、自らも弘川寺で生活をするようになります。
彼は弘川寺に住むだけではなく、その周囲に桜の木を植えました。弘川寺は主にソメイヨシノと山桜を見ることが出来ますが、ソメイヨシノは江戸時代に大流行した品種ですから、私の写真に写る桜も似雲が植えたものかもしれません。
その似雲は、自らが発見し、桜で飾った弘川寺で生涯を終えました。似雲の墓は、西行の墓の近くに残されています。その人生はさぞや満足のいくものであったことでしょう。西行の非常に面白い点は、このように後世の人々が西行の和歌を再現しようとするところです。これは別の機会に書きます。
以上、見てきた通り、西行は宗教上の要職にはありませんでしたが、その彼の和歌には不思議な力が宿ると考えられていました。その和歌の通りの彼の死は、多くの人々を感動させた。でも、後追いと言えるようなものは似雲を除いてほぼなかった。
ですから、弘川寺まで出向いて西行妖に出会すなんてことはありません。コロナが落ち着いたら、弘川寺で西行に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか?
主要な参考文献
西行を描きながらも、辻邦生の世界観が前面に押し出されていて読み応えのある一冊。
西行の生涯を一通りなぞるのであればこれ。辻の小説らしく風景の描写がとても美しい。
西行をテーマに各地を旅してみようと思わせてくれた一冊。
知識のある人はこういうことを考えながら旅をするんだなぁ、というのがわかる。
教養のある白洲先生と違い、教養のない私は何を書くべきか、とか考えたりもした。
西行の和歌に触れてみたい方はこちら。
本書以外にも、角川ソフィアのビギナーズクラシックスにはいい本が多く、
とりあえずこれから読んでおけば間違いないとオススメできる一冊。
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【漫画 煙と蜜】大正時代の名古屋
いつもの本屋である漫画が目につきました。タイトルは「煙と蜜」。
表紙に描かれた男女は、(と言っても女というより女の子という方が正しいのですが)その服装で作品が大正時代モノであることを強烈に主張しています。
歴史をテーマにブログを書いている者としてこれはスルーできません。手に取って、帯を見てみると「大正5年、名古屋」と書かれています。
え、大正で、なんでわざわざ名古屋・・・?
筆者は名古屋生まれの名古屋育ちで、好きな野球チームは中日ドラゴンズ。20年間を過ごした地元のことはそれなりに知っているつもりです。
だから「大正時代って言ったら帝都東京でしょ?物語の舞台になるほどの魅力って名古屋にあったっけ?」と思ったのです。
工業でも農業でも日本で上位に食い込む愛知県ですが、観光業についてはかなり劣ると言わざるを得ません。ですが、東海道新幹線のおかげで、名古屋人には京都も東京も近い。日帰りの東京観光ですら不可能ではないのです。
名古屋人にとって、レジャーは県外に求めるもの。自前で自慢できる観光力を持たない代わりに、それがあることによる煩わしさから解放されるという利点を享受しているのです。
そんな華のない街・名古屋で、モボやモガの闊歩する花の時代を描く理由はなんだろう?などと考えながら、レジに足を運んだのです。
簡単な内容説明
良家の娘である花塚姫子(12歳)と、帝国軍の将校である土屋文治(30歳)は許嫁の関係で、3年後に正式に結婚する事が決まっています。
キャッチコピー「戀から愛へ。子供から大人へ。」の通り、主に姫子の視点から、二人の関係が描かれているのですが、これがキュンキュンする訳ですね。
文治さまは男の目線から見てもセクシーで、彼が煙草の煙を燻らせるシーンを見ると、こういうの見てみんな煙草始めるのかな、とも思えてきます。
また、2人の関係だけではなく、大将時代における日常、四季の変化や、何気ない日常を丁寧に描いていく感じは、天野こずえのARIAを思い出しました。読んでいて、ほっこりと落ち着くのです。
ですが、ずっとこんな感じで続く訳でもなさそうです。
第一巻の後半では文治さまが30歳にして帝国陸軍第三師団・歩兵第六連隊の大隊長であることがわかります。
Wikiで調べてみると、第三師団は大正時代に実際に名古屋に置かれていたようで、この第六連隊は、大正7年にシベリアへ出兵することとなる・・・
ここから、出兵の前後が物語のハイライトになることが想像できますね。
それでもなんで・・・?
山場が出兵前後であると推察される「煙と蜜」ですが、なぜあえて、大正5年・名古屋なのでしょうか?
戦争で引き裂かれる二人をテーマに描くのであれば、他の時代・他のロケーションもあり得るはずです。
例えば、明治の女流歌人・与謝野晶子。彼女の弟は日露戦争に従軍し、旅順での作戦に参加することなるのですが、その時に与謝野晶子は有名な「君死にたまふことなかれ」の歌を残しました。
与謝野晶子の弟が所属したのは大阪の第四師団・第八連隊ですから、舞台を1900年の大阪に設定しても、戦争で引き裂かれる男女を描くことはできるはずです。しかも、与謝野晶子と同時代の舞台ということで、一般的にもわかりやすい。
にもかかわらず、大正5年の名古屋を舞台に選ぶのはなぜでしょうか?
私は、以下の2つの可能性が挙げられると思います。
①作者は旅順でもその他の戦場でも無く、シベリア出兵こそ描きたい
②作者は大正時代の名古屋に魅力を見出している
ただ、①の場合、出兵の3年前からゆっくりとした日常を描くのはちょっとチグハグな感じがします。
それよりは、大正時代の名古屋に魅力を見出し、物語のアクセントとしてシベリア出兵を置く②の方が自然なように見えます。
ここまでが、巡礼の前置き
20年間を過ごした私にとって、大正時代の名古屋はいまいちピンとこない。
一方、漫画 煙と蜜の作者は大正5年の名古屋に魅力を見出している・・・
地元民でも知らない魅力とは一体なんだろう?と思ってカメラを片手に、きちんとマスクをつけて帰省しました。
目指すは、名古屋駅から桜通線・名城線を乗り継いだ先の市役所駅。
このエリアでは、明治・大正っぽい建物が残されているイメージがあったのです。
ということで、市役所駅から徒歩10分ほどで名古屋市市政資料館に到着。
ここは明治・大正から令和に至るまでの名古屋の歴史が展示されているだけではなく、建物自体も大正11年に建築されています。
入館は無料で、時代を感じさせるエントランスが迎えてくれます。
地下の大学図書館のような古めかしい香りがしている。
二階の展示スペースは写真撮影可能な場所もあるとのことで、回ってみました。
右下に第三師団司令部とあります。文治さまの勤務地ですね。
第七話「兵隊と金鯱城」の一コマ目と似ています。漫画はもう少し弾き気味の構図であるところと、正面に木が生えていないところが違いでしょうか。
こういったシーンも漫画の中で登場してそうですね。
展示ムービー曰く、覚王山・広小路通り周辺には大正時代の建築が残されているとのことでした。ネットで検索してみると、大正時代から続く喫茶店とかもヒットしますね。
こうしてみると、私が知らないだけで、大正時代の素敵な建物は結構残されているのかもしれません。
「煙と蜜」に登場するかも?とか思いながら、名古屋を巡ってみるのオツなものかもしれませんね。
名古屋大正めぐり、続くかも・・・?
【東方妖々夢と西行の歴史】虚構から史実を読み解く
妖々夢は虚実入り乱れてるからこそ面白い
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃
ある有名な歌聖はかく詠み、その通りに自身の生涯を終えました。
その見事な死に様に人々は大いに感動し、中には同じ桜の下で死ぬ者まで出る始末。
そんなことが繰り返されるうち、その桜は人を死に追いやる妖怪桜「西行妖」となってしまったのでした。
これは、言わずと知れたゲーム東方妖々夢のプロローグです。
妖々夢のプロローグが秀逸なのは、事実と虚構(フィクション)を巧みに織り交ぜている点で、和歌を詠んだとされる「ある有名な歌聖」にもモチーフがいます。
それは平安時代末期を生きた西行法師。生涯に2000首を超える和歌を残し、百人一首にも選ばれている彼には、冒頭の「願わくは」歌以外にも、桜と死にまつわる和歌があります。
仏には 桜の花を 奉れ
我が後の世を 人弔はば
これら2つの和歌はどちらも東方妖々夢のステージ開始時のカットインに登場しており、作品から西行の存在にたどり着くための手がかりとなっています。
また、その西行には娘がいたとされ、西行物語絵巻には西行が出家の際に娘を蹴り飛ばして出ていく様が描かれています。
この「蹴り飛ばされた娘」こそ、ある有名な歌聖の娘・西行寺幽々子のモチーフであることは言うまでもありません。
妖々夢のストーリーは事実と虚構によって彩られているのです。
原作者のZUNは、歴史的事実に幻想郷のエッセンスを加えた上で、このストーリー(=虚構)を私たちに提供してくれました。
それに対して私は、提供された側として逆のこと、つまり幻想郷の虚構から歴史的事実に触れていくことをしてみたいと思います。
それは、1人の歴史好きとして平安時代の出来事が現在にもつながっていることを実感することと、史実の視点から妖々夢のストーリーをより深く味わうことの二点を可能にしてくれると思うからです。
そのために、妖々夢のストーリーから下記の疑問を設定し、文献にあたったり、「聖地巡礼」を行いながらそれらの問いに答えていきたいと思います。
①西行はなぜ、桜の下で死にたいと和歌を詠んだのか?
願わくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月の頃
これは西行が死ぬ間際に詠んだ和歌と思われがちですが、実はそうではありません。73歳で生涯を終える西行が60代の頃に詠んだ和歌です。なぜ彼は、死期を悟る前から死に様の歌を詠んだのでしょうか?
まずは、西行の生涯について、彼の和歌を参照しながら触れていきたいと思います。
②西行の死は当時の人々にどのような影響を与えたのか?
妖々夢のストーリーでは、歌聖の死に様に感動して多くの後追いが出たとされています。ですが、宗教的に重要な役職についていたわけでもない西行の死が、多くの人々に影響を与えることなどありえたのでしょうか?
桜と満月の下での死は同時代の人々にどのような影響を与えたのかについて探ります。
③「西行の娘」は西行寺幽々子なのか?
出家に際して、娘を蹴り飛ばして出て行ったとされる西行。蹴り飛ばされた娘は、のちに亡霊となる西行寺幽々子なのか?
正直、この問いに関しては参照できる文献が少ないのですが、その分想像の余地があると置き換えて考察してみたいと思います。
この試みが、より遠く、より深いところへ私を連れていってくれることを願って。
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【シャニマス考察】百人一首のススメ
凛世のコミュを考察するために、百人一首や万葉集に手を出してみるのは非常に良い試みだと思います。凛世のコミュだけでなく、和歌の歴史に触れることは、非常に奥深く、面白いことですから。すでにお手元に歌集があるなら、それをぜひ読み進めていただきたい。ですが、凛世の元ネタを探るという意味では、お手元の歌集よりも、いいのがあるかもしれません。
さて、我らがアイドル杜野凛世は特技として百人一首を挙げています。
百人一首とは、鎌倉時代の初期を生きた藤原定家(1162~1241)が、宇都宮頼綱のために書いて送ったものとされています。宇都宮頼綱は藤原定家の息子の義理の父親にあたる人物。つまり、百人一首とは初めは、極めて私的な作品だったのです。
ですが藤原定家は「美の鬼」という異名があるほど、和歌に対する美意識が凄まじいお方ですから、この私的な作品はその中に、和歌の歴史や人物関係までをも含むことになったのです。そしてそれが後世に広がり、今ではかるた取りの競技にまでなりました。
ところで、一般的に百人一首といえば、定家が作ったとされる小倉百人一首をさすのですが、他にも同じ頃に成立されたとされる「百人秀歌」や、九代将軍足利義尚による「新百人一首」など、百人の一首づつを集めた歌集は数多く編纂されました。以下、この記事では特に断りの限り、百人一首は定家の小倉百人一首を指すものとします。
ところで、この百人一首に収録されている歌人で、凛世のコミュに引用されている例はどの程度あるのでしょうか。私が把握している限りでは下記のようになります。
(※モレがあればコメントで指摘いただければ幸いです)
・柿本人麿 「天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」 世界コミュ
・小野小町 「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを」
朝コミュ 2番(解説はこちら)
・元良親王 「詫びぬれば いまはた同じ 難波なる 身を尽くしてもぞ あはんとぞおもふ」微熱風鈴 みおつくし(解説はこちら)
・和泉式部 「とことはに あはれあはれは つくすとも 心にかなふ ものか命は」微熱風鈴 とことはに
このうち、歌人と和歌の組み合わせが百人一首そのままなのは、元良親王の「詫びぬれば」しかありません。柿本人麿と小野小町、和泉式部は、百人一首では別の和歌がとられているのです。
百人一首で採用されている和歌
三番 柿本人麿
「あし引の 山鳥の尾の しだりをの ながながし夜を ひとりかもねむ」
九番 小野小町
「花のいろは うつりにけりな いたづらに 我身よにふる ながめせしまに」
五十六番 和泉式部
「あらざらむ この世のほかの 想ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
このように、凛世のコミュで登場する和歌は、百人一首に限ったものではありません。例を挙げれば、下記の通りになります。
・額田王 「漕ぎいでな」 優勝後コミュ
・紀野恵 「ゆめな忘れそ」 感謝祭
・与謝野晶子 「何となく」 凛世花伝 True
これだけ見ると、平安時代から現代に至るまで、幅広い時代から採用されている。「嗚呼、これでは予習なんて無理ではないか」。そう思いませんでしたか?私も思いました。ある歌集を見つけるまでは。
平成新選百人一首
これは、文字通り平成の時代(2002年)に編纂された、とりわけ若い人々を中心に、古典に親しむ切掛を提供することを目標とした歌集です。この歌集には、遥か古代のスサノオノミコトの和歌から、昭和天皇の御謹製までが収録されています。一方、小倉百人一首に収録されている和歌は平成新選百人一首では収録されていません。
例えば、小野小町は平成新選百人一首にも登場しますが、彼女の和歌は小倉百人一首に登場する「花の色は」とは別の和歌がとられているのです。
では、何が選ばれているのでしょうか?
平安時代の部の三首目にその答えはあります。
思ひつつ 寝ればや人の みえつらむ
夢と知りせば さめざらましを 小野小町
そう、凛世のコミュで採用されている和歌が収録されています。
またさらに、
記紀・萬葉時代の部、九首目
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 額田王
明治・大正・昭和時代の部、十二首目
なにとなく 君に待たるる ここちして
出し花野の 夕月夜かな 與謝野晶子
そう、小倉百人一首では元良親王しか採用されていなかったのに対し、平成新選百人一首では三首が採用されています。
ということは、平成新選百人一首は予習効率3倍!!!!
さぁ、ここまで来れば、もはややることはただ一つ、これまでの凛世のコミュで採用されている和歌たちの中から、共通項をあぶり出し、平成新選和歌集をみていけば、今後シャニマス に登場しそうな和歌が見えてくるのではないでしょうか。
これまでの採用歌には、おおむね下記のような傾向がありそうです。
・女性が詠んだ和歌が多い
・恋を扱った和歌、中でも成就する前のものが多い
今後は、平成新選和歌集から出てきそうな和歌の解説も行っていきたいと思います。下記にリンクを貼っていきますので、時々覗いていただければ、私のモチベーションにもなりますので、どうぞよしなに。
第一回 若山牧水(?)
さて、せっかくですので、筆者と和歌の話をさせてください。私、フルカワPは杜野凛世のコミュに焦点を当てる前は、西行法師の和歌を追っていました。
追っていたというのは、平安時代を生きた西行法師が訪れたという場所を、歌集を片手に巡ったのです。北は岩手の平泉から、京都の名所、南は和歌山の熊野で、西行も修行をしたであろう中辺路の40Kmを歩き切りました。
これは、東方シリーズに登場する西行寺幽々子が西行の娘であり、西行法師を知ることで、東宝シリーズの解釈が深まるのではないか?というテーマから始めた試みでした。
これらの「聖地巡礼」を行う中で、和歌とは単なる三十一文字の言葉遊びではなく、歌人の心を保存する器であると感じるようになりました。
歌人の人生を知り、訪れた場所で、詠んだ和歌に触れる、そうすることで、たとえ平安時代と現代で千年の時が隔てられていようとも、歌人の心に触れることができる。しかもそれは、歌人が詠んだ和歌そのものではなく、私を通して解釈されるのです。
例えば、仕事帰りに思い出す西行の和歌があります
惜しむとて 惜しまれぬべき 我が身かは
身を捨ててこそ 身をも助けめ
この和歌を私が口ずさむ時、出世と出家に悩んだ西行の心が再生される。ただし、それは西行の心がそのまま再生されるのではなく、疲れたサラリーマンの文脈で再生される。それは、私に西行が寄り添ってくれるような感覚です。
このようにして和歌に触れてみると、和歌というものは決して、一度きりの、すでに終わったものではなく、後世の人間が語り継いで、心を通わせていくことで新たなページを加えていくものであるように思えたのです。和歌は教養のためにただ暗記するものではない。
凛世のコミュの中で和歌が登場のは、彼女に古典の知識が豊富にあるからではありません。凛世が和歌を思い出している時、彼女の心は歌人の心に触れているのです。歌人の心に触れ、彼女が何を感じているか、何を思っているか、について考えることは、シャニマスのコミュをより深く味わうだけではなく、些細ながらも和歌の歴史に新たな解釈を付け加えているのです。
参考文献
梅田卓夫, 文章表現 四〇〇字からのレッスン, ちくま学芸文庫
【シャニマスコミュ考察】月岡恋鐘 月の浜辺で待っとって
本当に欲しいものって、何?
限定恋鐘のコミュといえばTRUEコミュの「愛してる」。このセリフで血糖値が爆上がりしたPは私だけではないはずです。
ですが、この「月の浜辺で待っとって」には、それ以外にも魅力が詰まっています。キーワードは「本当に欲しいもの」。
このコミュでは、恋鐘が欲しいものを自分で手にしていく様が描かれています。それも、あの有名な輝夜姫との対比の通じて。今回は、甘々なだけでない恋鐘の魅力について簡単に解説していきたいと思います。
あえて簡単な、と断りました。今回のコミュも前回に引き続き、元ネタを知ることで何か新しい解釈ができないか?と思ってアレやコレや考えてみたのですが、最終的にとある結論にぶつかります。それは、
「こがたん、多分そんなに考えていないよね」
この二次創作者泣かせの事実に対して、私はどう立ち向かえばいいのか。逆立ちして出た答えが、「考えていないのにやっちゃう恋鐘、かっこいいよね」です。そう、結論はそれだけ。でも、誰かのインスパイアになればと思い、以下にまとめていきたいと思います。
竹取物語について
竹取物語は8世紀後半から9世紀前半に製作されたとされる作品です。作者については伝わっていませんが、日本初めての創作物語とも評されています。この名も知れぬ作者は日本各地にある様々な伝承と、当時の藤原政権に批判的な態度と、彼自身のユーモアをミックスして物語を創造しました。
月から堕とされたかぐや姫が求婚者たちに無理難題を吹っかけ、最後には月へ帰っていくストーリーはみなさんご存知の通り。近年でも映画になったりゲームのモチーフになったりと、その魅力は1,000年以上経っても色褪せてはいません。
コミュの中での竹取物語について
では今回はその竹取物語が登場するコミュ、月岡恋鐘の「月の浜辺で待っとって」をみていきましょう。
冒頭は彼女が平安調の着物を着て写真を撮るシーンから始まります。この写真のおかげで、彼女は小さいながらも、舞台で竹取物語の輝夜姫を演じる機会に恵まれました。
ですが、コミュの中でPと恋鐘は初詣に行ったり、福袋を買いに行ったりと、終始イチャついているだけのように見えます。
TRUEでも練習に見せかけて「愛してる」と囁き合う始末。
結局、プレイヤーである私たちには、恋鐘がどんな舞台を演じたのか目の当たりになりません。ですが、舞台の本番を見なくとも、このコミュの重要な部分はすでに描かれているのです。それを以下に見ていきましょう。
恋鐘が舞台で演じるセリフに、次のものがあります。
「私はこの世のものではありません。私を手に入れたくば、蓬莱の玉の枝をご持参ください」
このセリフ、実は竹取物語には登場し得ないセリフなのです。竹取物語において、輝夜が蓬莱の玉の枝を所望する相手は倉持皇子。一方、自分が月から来た人間であることを明かすのは求婚者の中では帝ただ一人なのです。そのため、恋鐘が舞台で演じたかぐや姫のストーリーにはアレンジが加えられていることが推察されます。
ところで、輝夜は本当に蓬莱の玉の枝が欲しかったのでしょうか。答えはNO。五人の貴公子たちからの求婚を体良く断るために、それぞれに難題をふっかけているに過ぎません。
こうしてみると、先に触れたセリフは原作に登場しませんが、輝夜というキャラクターを大変よく表現していると思います。自分は男たちに靡く気が全くないのに、月に帰らなくてはならないからと理由をすり替え、蓬莱の玉という無理難題を吹っかけて、求婚を体良く断っていく。容量が良くてどこか冷めた女。それが輝夜姫なのです。
冷めた女である輝夜にとって、蓬莱の玉の枝も、その他の珍しい品々も、本当に欲しいものではありません。
では、彼女にとって本当に欲しいものとはなんだったのでしょうか?
この問いにスポットを当てた作品こそジブリの「かぐや姫の物語」です。
この作品の中では、竹取の翁がかぐやを一人前の姫になるように教育を施す様が描かれます。天真爛漫な彼女は、次第に立派な姫君になるように「強制」されていくのでした。
やがて翁の努力が身を結び、都の中で評判になったために、貴公子らの求婚を受けることになったかぐや姫。ですが残念ながらそこに愛はありません。貴公子達は、言うなればコンプリート欲、美人であればとりあえず契っときたい、の心で求婚してきたにすぎません。
彼らとの対比として、かぐやは農民として暮らしていた頃の飾らない感性、四季を愛でる心や、コンプリートの対象でない人としての扱いを心の中では求めていたのです。
ですが、彼女は欲しいものを一切手に入れることはできず、それらを地上にすべて残して、月の世界に帰っていくのです。静寂が支配する月の世界では、心が動くこともないため、もはや「欲しい」と言う感情すら湧きません……
さて、翻って「本当に欲しいもの」をキーワードに「月の浜辺」を読み解いていきましょう。
月の浜辺のコミュ
ここからは、ゲームのコミュ内で輝夜を演じる恋鐘にスポットを当てていきましょう。
コミュで恋鐘は様々なものを所望します。大トロに始まり、福袋・おみくじ、コミュの詳細説明はゲームや動画で確認できるので、ここでは省略させていただきますが、自分が本当に欲しいものを自分で勝ち取っていく様が描かれていることがわかります。
おみくじだって、普通の人は一、二回引いたら満足するところを、恋鐘は大吉を引けるまで粘る。
これが普通のコミュで描かれていれば、「恋鐘ってちょっと変わってるよね」で済むのですが、自分の欲しいものは何一つ手に入れることが出来なかった輝夜がモチーフのコミュで描かれていることに大きな意味があると思うのです。
「月の浜辺で待っとって」において、恋鐘が輝夜を演じるコミュです、ですが、二人の「欲しいものに対するスタンス」は全く違う。しかも、恋鐘自身は「輝夜姫を演じているから」とか「作品がどうだから」といったことは一切考えることなしに、ありのままの自分で、本当に欲しいものを求め、自分で手に入れていく。
恋鐘がリーダーとしている限り、L'Anticaは自分たちの欲しいものを、自分たちの力で入れていくはずです。宇宙一のユニットにだってなってくれるでしょう。
愛してるのセリフ
最後に、恋鐘の台詞であり、輝夜のセリフでもある「愛してる」について考えてみましょう。
見落とされがちではありますが、輝夜が帝の求婚を断った後、二人は文を交わす間柄になります。これは単なるメル友(死語)ではなく、平安の時代では、心が通い合っている、と言っても過言ではありません。
Trueコミュにおいて恋鐘は「愛してる」のセリフを練習していますね。このことから、舞台で輝夜は帝に対してその思いを伝えると類推されます。こちらも、古典の竹取物語にはないシーンで、この舞台は、輝夜と帝の結ばれなかった恋を描いていると推測されます。
結局、月に帰っていく輝夜。もし、愛してるを"I want you"に置き換えてみれば、ここでも輝夜は欲しかったものを手に入れられなかったことになりますね。
ここまで述べてきた通り、「月の浜辺で待っとって」では、恋鐘と輝夜は対比して描かれていました。はてさて、これから恋鐘は一体誰を手に入れるのでしょうか?
まとめ
月岡恋鐘の「月の浜辺で待っとって」は、一見するとPラブ勢の甘々な日常を描いたコミュに見えます。
ですが、輝夜姫との対比の中に、恋鐘の「自分の欲しいものを自分で手に入れる」性向を描いた読み応えのあるコミュとなっています。
おそらく、恋鐘本人は輝夜の事は一切気にすることなく、心のままに求めている。それこそが彼女のリーダーたる所以なのでしょう。
動画
今回もニコニコ動画に解釈MADを投稿しています。
こちらもどうぞよしなに。
参考文献
角川書店編, ビギナーズ・クラシックス日本の古典 竹取物語(全), 角川ソフィア文庫
和田博文, 月の文学館 月の人の一人とならむ, 筑摩書房
日野原健司, 月岡芳年 月百姿, 青幻社
ラフカディオ・ハーン、池田雅之編訳,小泉八雲東大講義録,角川ソフィア文庫
梅田卓夫,文章表現 四◯◯字からのレッスン,ちくま学芸文庫