Neue Geschichte

歴史をテーマにオタク活動するブログ

西行の歴史を歩く 花の下にて

2018年3月、寮の近くにあった寺院をぶらりと訪れてみると、出迎えてくれたのは満開の桜。まだ少し寒い風が吹く中で、私はポケットのウォークマンから桜の季節らしい曲を探しました。いくつか目に止まった中で、一番しっくりきたのは「幽雅に咲かせ墨染めの桜」のジャズアレンジバージョン。東方妖々夢のクライマックスを飾る曲を聴きながら、私は平安時代の坊さんについて想いを馳せ始めたのです。

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史実と虚構のはざまに

東方妖々夢の主軸となる妖怪桜、西行妖。その誕生の発端となったのは歌聖が詠んだある和歌でした。

 

願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

この和歌の通りに歌聖は世を去り、その死に様に感動した人々が同じ桜の下で後を追ううちに、ただの桜が妖怪桜になってしまった・・・

これはゲーム・東方妖々夢のプロローグです。

 

ここに登場する「ある歌聖」とは平安末期に実在した西行法師。

彼は日本各地を旅しながら、数々の和歌を残しました。百人一首に選ばれている、以下の歌が有名です。

 

嘆けとて 月やはものを 思はする

かこちがおたる わが涙かな

 

冒頭の「願わくは」歌は、西行の最期の和歌として知られています。彼はこの和歌の通り、釈迦入滅と同じ月に、満開の桜の下で生涯を終えました。命日は釈迦と1日違いだったとされます。

 

ここまでは史実、つまり実際に起きた出来事です。

 

この史実をもとに、ゲームの原作者は「人々が感動し、後追いまで出て、妖怪桜が誕生した」と架空のストーリーに繋ぎました。

 

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画像は西行法師の娘とされる「西行寺幽々子

 

ですが、実際にそんなことは起こり得たのでしょうか?現代の感覚で考えてみましょう。例えばローマ教皇ダライ・ラマが亡くなった時、私たちはテレビを通じて、生きていく希望ごと失われてしまったかのような人々が、悲しみにくれて涙を流す様を目の当たりにします。確かに1人の死は多くの人々に影響しうる。

 

一方、西行は宗教上の要職にあったわけではありません。当然、その死がテレビで報道されるはずもない。西行のひっそりとした死が、同時代の人々に影響を与えることが可能だっのでしょうか?可能だとしたら、実際にどんな影響があったのか?

 

私はこのように疑いながらも、実際にそういうことがあったと史実に残されているのではないかと思ったのです。原作者はその史実を手がかりに作品を想像した。そうでないと、このプロローグが非常に突飛なものになってしまう。

 

私が勝手にあると決めつけた史実は、そのとき何か魅力的なものに思えました。自分はまだ知らないけれども、確実にあるハズのもの。それを追ってみることで、これまで目にしたことのない光景、知らなかった事実に触れることができるのではないか?

 

それは私の東方妖々夢を見る目すらも変えてしまうのではないか?そんな気がして、西行の跡を追い始めたのです。

 

西行の生き様

西行の死に様を知るためには、西行の生き様を知らなければならない。

そう考えて、様々な書籍に当たり、彼が和歌を詠んだ場所を訪れていきました。そうするうちに、西行の人生がぼんやりと見えてきました。

 

西行は僧侶でありながら、旅と和歌に行きた人でした。奥州・平泉や紀州・熊野、四国・讃岐など様々な場所を訪れ、和歌を読んでいます。

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紀州熊野古道の中辺路

 

西行にとって、和歌とはなんだったのでしょうか?

それは、一言でいえば和歌即真言西行にとって、和歌とは仏教の真理を語るための言葉でした。

 

和歌のことをそんなふうに考えている人は西行以外にいませんでした。なので彼と同時代の人たちは、西行の和歌には不思議な力が宿ると考えたのです。

 

実際に、西行は和歌の力で不思議なことを起こしました。

 

例えば、保元の乱で負けてしまい、配流となった崇徳院という方がおられました。流された先の讃岐で崇徳院は生涯を終えるのですが、絶望のあまり怨霊となった、と都の人々が噂するようになります。噂には尾鰭がついて、とうとう怨霊を見た、という人まで出る始末。

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怨霊となった崇徳院

 西行は、生前の崇徳院と面識がありましたから、讃岐を訪れて彼の魂を慰める和歌を読みました。

 

よしやきみ 昔の玉の 床とても

かからんのちは 何にかはせん

(我が君よ もうよしてください 昔の様に玉座についておられても

 この様なことになってしまっては 一体何になるのでしょうか)

 

西行が讃岐に渡り、崇徳院の魂を鎮める和歌を読んだことが都にも流布すると、怨霊の噂もピタリとやんだのです。

 

 実際に不思議な力があったのか、それとも人々が都合よく解釈したのかは不明ですが、西行の和歌が仏教の真言であり、不思議な力が宿ると当時の人々が本当に思っていたことは事実です。そして、その極め付けがこの和歌です。

 

願わくは 花の下にて 春しなむ

その如月の 望月の頃

 

和歌の通り、西行は満開の桜と満月の下で、しかも釈迦と1日違いで生涯を終えました。

 

西行和歌の不思議な力で、西行は望んだ通りの死を迎えた。そのことは都の人々を多いに感動させたようです。歌壇の重鎮・藤原俊成天台宗座主・慈円と寂蓮、藤原定家と公衡が西行の最期と和歌についてやりとりを交わしているのが残されています。

 

後追いはあったのか?

ここまで見てきた通り、西行が和歌の通りに死んだことは、都の人々を大いに感動させたことは間違いありません。

 

でも、東方妖々夢のストーリーにあるように、後追いはあったのでしょうか?

結論から言うと、私はほぼなかった、と思っています。

そのことについて、弘川寺から考えてみます。

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西行終焉の地 弘川寺

 

弘川寺は河内にある寺院で、西行終焉の地として知られているだけでなく、春は桜が、秋は紅葉が美しい、知る人ぞ知るスポットでもあります。

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秋の弘川寺


現代の我々は西行が弘川寺で亡くなったことを知っていますが、西行がどこで亡くなったのかについては、江戸時代まではっきりしていませんでした。西行平安時代末期の人ですが、鎌倉時代にはすでに、弘川寺とは別の寺が西行終焉の地として、誤って認識されていた様です。

 

これこそ、西行の後追いがなかったことの証拠ではないでしょうか。もし、妖々夢のストーリーのように、多くの後追いが出たのであれば、その事実ともに、西行が弘川寺で死んだことも残されるはずです。ですが、実際にはそのようなことはなかった、故に平安から鎌倉の動乱の中で、弘川寺のことをみんなが忘れてしまった、そんな気がするのです。

 

それでも信じられない方は、西行が亡くなった3月下旬頃に弘川寺を訪れてみるといいでしょう。静かな、それでいて寂しさを感じさせない山里の中に弘川寺はあります。麗かな春の日差しの中、桜だけがはらはらと散っていく。時々、遠くのほうでホトトギスの鳴き声が聞こえて来る。

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山里の静かな夕暮れ

 

春の弘川寺にいると、西行が弘川寺を終の住処に決めたのもわかる気がします。彼は世を捨てて好きに和歌を詠むだけの平穏な人生を送ったのではなかった。崇徳院木曽義仲平清盛・・・動乱の中で、多くの人々が権力を極め、そしてその座から転げ落ちて行った。西行自身も生き残ることと、和歌を次の時代に引き継ぐことに必死だった。そんな彼が、自分の仕事を全てやり切った上で、最後の場所に選んだのが弘川寺なのです。

 

この静かな空間には後追いなんて似つかわしくない。

西行の願わくはの和歌を詠んだ。でも、その和歌は死ぬことそのものを詠んだのではなかった。

桜が満開の弘川寺で、私はそう確信することが出来たのです。

 

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西行法師の墓


でも私は冒頭で、ほぼなかった、と書きました。ほぼなかった、と言うことは例外があったのです。この例外も、現地に行ったからこそ知ることが出来ました。せっかくなので紹介させていただきます。

 

唯一の例外、それは江戸時代の僧侶でした。名前を似雲といいます。大の西行好きで、「今西行」の異名を取る彼は、鎌倉時代に分からなくなっていた西行終焉の地が弘川寺であることを突き止め、自らも弘川寺で生活をするようになります。

 

彼は弘川寺に住むだけではなく、その周囲に桜の木を植えました。弘川寺は主にソメイヨシノと山桜を見ることが出来ますが、ソメイヨシノは江戸時代に大流行した品種ですから、私の写真に写る桜も似雲が植えたものかもしれません。

 

 その似雲は、自らが発見し、桜で飾った弘川寺で生涯を終えました。似雲の墓は、西行の墓の近くに残されています。その人生はさぞや満足のいくものであったことでしょう。西行の非常に面白い点は、このように後世の人々が西行の和歌を再現しようとするところです。これは別の機会に書きます。

 

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似雲の墓


以上、見てきた通り、西行は宗教上の要職にはありませんでしたが、その彼の和歌には不思議な力が宿ると考えられていました。その和歌の通りの彼の死は、多くの人々を感動させた。でも、後追いと言えるようなものは似雲を除いてほぼなかった。

 

ですから、弘川寺まで出向いて西行妖に出会すなんてことはありません。コロナが落ち着いたら、弘川寺で西行に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか?

 

主要な参考文献

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西行を描きながらも、辻邦生の世界観が前面に押し出されていて読み応えのある一冊。

西行の生涯を一通りなぞるのであればこれ。辻の小説らしく風景の描写がとても美しい。

 

 

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西行をテーマに各地を旅してみようと思わせてくれた一冊。

知識のある人はこういうことを考えながら旅をするんだなぁ、というのがわかる。

教養のある白洲先生と違い、教養のない私は何を書くべきか、とか考えたりもした。

 

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西行の和歌に触れてみたい方はこちら。

本書以外にも、角川ソフィアのビギナーズクラシックスにはいい本が多く、

とりあえずこれから読んでおけば間違いないとオススメできる一冊。

 

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【漫画 煙と蜜】大正時代の名古屋

いつもの本屋である漫画が目につきました。タイトルは「煙と蜜」。

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表紙に描かれた男女は、(と言っても女というより女の子という方が正しいのですが)その服装で作品が大正時代モノであることを強烈に主張しています。

 

歴史をテーマにブログを書いている者としてこれはスルーできません。手に取って、帯を見てみると「大正5年、名古屋」と書かれています。

え、大正で、なんでわざわざ名古屋・・・?

 

筆者は名古屋生まれの名古屋育ちで、好きな野球チームは中日ドラゴンズ。20年間を過ごした地元のことはそれなりに知っているつもりです。

だから「大正時代って言ったら帝都東京でしょ?物語の舞台になるほどの魅力って名古屋にあったっけ?」と思ったのです。

 

工業でも農業でも日本で上位に食い込む愛知県ですが、観光業についてはかなり劣ると言わざるを得ません。ですが、東海道新幹線のおかげで、名古屋人には京都も東京も近い。日帰りの東京観光ですら不可能ではないのです。

 

名古屋人にとって、レジャーは県外に求めるもの。自前で自慢できる観光力を持たない代わりに、それがあることによる煩わしさから解放されるという利点を享受しているのです。

 

そんな華のない街・名古屋で、モボやモガの闊歩する花の時代を描く理由はなんだろう?などと考えながら、レジに足を運んだのです。

 

簡単な内容説明

良家の娘である花塚姫子(12歳)と、帝国軍の将校である土屋文治(30歳)は許嫁の関係で、3年後に正式に結婚する事が決まっています。

 

キャッチコピー「戀から愛へ。子供から大人へ。」の通り、主に姫子の視点から、二人の関係が描かれているのですが、これがキュンキュンする訳ですね。

 

文治さまは男の目線から見てもセクシーで、彼が煙草の煙を燻らせるシーンを見ると、こういうの見てみんな煙草始めるのかな、とも思えてきます。

 

また、2人の関係だけではなく、大将時代における日常、四季の変化や、何気ない日常を丁寧に描いていく感じは、天野こずえARIAを思い出しました。読んでいて、ほっこりと落ち着くのです。

 

ですが、ずっとこんな感じで続く訳でもなさそうです。

 

第一巻の後半では文治さまが30歳にして帝国陸軍第三師団・歩兵第六連隊の大隊長であることがわかります。

Wikiで調べてみると、第三師団は大正時代に実際に名古屋に置かれていたようで、この第六連隊は、大正7年にシベリアへ出兵することとなる・・・

ここから、出兵の前後が物語のハイライトになることが想像できますね。

 

それでもなんで・・・?

山場が出兵前後であると推察される「煙と蜜」ですが、なぜあえて、大正5年・名古屋なのでしょうか?

 

戦争で引き裂かれる二人をテーマに描くのであれば、他の時代・他のロケーションもあり得るはずです。

 

例えば、明治の女流歌人与謝野晶子。彼女の弟は日露戦争に従軍し、旅順での作戦に参加することなるのですが、その時に与謝野晶子は有名な「君死にたまふことなかれ」の歌を残しました。

 

与謝野晶子の弟が所属したのは大阪の第四師団・第八連隊ですから、舞台を1900年の大阪に設定しても、戦争で引き裂かれる男女を描くことはできるはずです。しかも、与謝野晶子と同時代の舞台ということで、一般的にもわかりやすい。

 

にもかかわらず、大正5年の名古屋を舞台に選ぶのはなぜでしょうか?

私は、以下の2つの可能性が挙げられると思います。

 

①作者は旅順でもその他の戦場でも無く、シベリア出兵こそ描きたい

②作者は大正時代の名古屋に魅力を見出している

 

ただ、①の場合、出兵の3年前からゆっくりとした日常を描くのはちょっとチグハグな感じがします。

 

それよりは、大正時代の名古屋に魅力を見出し、物語のアクセントとしてシベリア出兵を置く②の方が自然なように見えます。

 

ここまでが、巡礼の前置き

20年間を過ごした私にとって、大正時代の名古屋はいまいちピンとこない。

一方、漫画 煙と蜜の作者は大正5年の名古屋に魅力を見出している・・・

 

地元民でも知らない魅力とは一体なんだろう?と思ってカメラを片手に、きちんとマスクをつけて帰省しました。

 

目指すは、名古屋駅から桜通線名城線を乗り継いだ先の市役所駅。

このエリアでは、明治・大正っぽい建物が残されているイメージがあったのです。

 

ということで、市役所駅から徒歩10分ほどで名古屋市市政資料館に到着。

ここは明治・大正から令和に至るまでの名古屋の歴史が展示されているだけではなく、建物自体も大正11年に建築されています。

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入館は無料で、時代を感じさせるエントランスが迎えてくれます。

地下の大学図書館のような古めかしい香りがしている。

 

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二階の展示スペースは写真撮影可能な場所もあるとのことで、回ってみました。

 

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右下に第三師団司令部とあります。文治さまの勤務地ですね。

 

第七話「兵隊と金鯱城」の一コマ目と似ています。漫画はもう少し弾き気味の構図であるところと、正面に木が生えていないところが違いでしょうか。

 

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こういったシーンも漫画の中で登場してそうですね。

 

展示ムービー曰く、覚王山・広小路通り周辺には大正時代の建築が残されているとのことでした。ネットで検索してみると、大正時代から続く喫茶店とかもヒットしますね。

こうしてみると、私が知らないだけで、大正時代の素敵な建物は結構残されているのかもしれません。

 

「煙と蜜」に登場するかも?とか思いながら、名古屋を巡ってみるのオツなものかもしれませんね。

 

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名古屋大正めぐり、続くかも・・・?

 

 

 

 

西行の歴史を歩く 熊野修行

前回の記事では、西行の出家について触れました。

 

彼の出家の原因の一つには、待賢門院との恋愛がありました。西行は出家した後も、待賢門院のことを気遣ってか、なかなか京都を離れることはできなかったのです。

 

ですが、1145年に彼女が世を去ったのち、西行も都を離れて修行を行うようになります。

 

今回扱う熊野も彼の修行地の一つ。西行には熊野で呼んだとされる和歌があり、様々な季節で詠まれていることから、熊野で修行をしたのは一度や二度ではないと推測されます。

 

では、西行が何度も修行をしたとされる熊野とは、一体どの様な場所なのでしょうか?

 

熊野はどんな場所?

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熊野の存在は遥か昔、神武天皇の伝説の時代にまで遡ります。那智大滝を発見されたのが神武天皇とされているのです。神武天皇が大和に帰る際の道案内を務めたとされるのが、八咫烏で、現在では日本サッカーチームのシンボルとなっています。

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神武天皇

 

平安時代になると、大陸から伝来した仏教と日本古来からある神道の結びつきが強まっていき、熊野も神仏混淆の聖地とみなされる様になっていきます。

 

平安時代には他にも注目すべき出来事が起こりました。宇多天皇が熊野詣(熊野御幸と言います)を行ったのです。宇多天皇天皇という神道のトップの立場でありながら、寺院を建立しその門跡(住職)になられたお方です。

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宇多天皇

 

天皇による熊野詣では人口に膾炙し、平安時代には蟻の行列の様に熊野を目指す人々が絶えなかったそうです。

 

宇多天皇の熊野御幸は、のちの天皇にも引き継がれていきました。後白河天皇後鳥羽天皇をはじめ、数多くの天皇が熊野御幸を行う様になります。

 

では、なぜ天皇は熊野を訪れたのでしょうか?

 

一つ目は宗教的な理由です。熊野では、歩くこと自体が修行になります。老若男女・貴賎を問わず、歩いて熊野本宮大社を目指す。その修行を通じて、神仏の加護を得られると考えられていました。

二十八回もの熊野詣でを行った後鳥羽上皇は、承久の乱隠岐へ流されてしまいますが、そときに読んだ和歌が残っています。

 

岩にむす 苔踏みならす み熊野の

山のかひある 行末もがな

(熊野の山の峡を見ながら岩に生えている苔を踏み鳴らすほど通った。

 その甲斐あって、世の中の行く末が良くなってほしいものだ)

 

二つ目には現代でいうところのリフレッシュがあったことでしょう。京都にいる限り公務から逃れられない天皇であっても、熊野まで来れば大自然に囲まれ、忙殺される日々から解放されることが出来ます。

 

三つ目としては政治的な理由があります。熊野には代々住み着いた豪族がいて、水軍を有していました。東海道を往くにせよ、西海道を往くにせよ、京都にとって熊野は後背地に当たります。京都の安全保障上からしても、熊野との関係は重要だったのでしょう。

 

我もしてみんとす

以上の歴史を踏まえて、実際に熊野修行を行ってみました。

熊野修行にはいくつものルートがありますが、現代で主流なのはそのうち中辺路と呼ばれるルートです。

 

和歌山県紀伊田辺で前泊し、翌日の早朝からバスで滝尻王子まで移動。

現代の熊野修行はここ、滝尻王子から始まります。

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1日目は滝尻から近露王子までの20キロをひたすら歩く。道中には高原の里など、素晴らしい光景が広がっており、これが苦行であるということを忘れてしまいます。

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6時間ほど歩けば近露王子に到着。ここで一泊し、翌日は熊野本宮大社までの残り20キロを歩きます。

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つまり、2日日間で40キロも歩くわけです。1日あたり6〜7時間ひたすら歩く。

一体どんな人が、こんな苦行なんてやるんだ、と思ってました。

 

でも、案外いけます。

むしろだんだん気持ち良くなってくる。

 

熊野の道中に電波はありません。納期や上司のことを考えるべくもないほどの険しい道を登り、その先で素晴らしい光景に出会う。

 

熊野には、大自然と先人達が歩いた道しかないのです。この中で、普段の煩わしい文明から解き放たれて、ひたすら歩き、時々飯を食い、眠る。

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こうするうちに、普段の余分なことが剥がれ落ちて、「生きることってこういうことだよな」と、わかった様な気になるのです。

 

本当に、巡礼の道とは良くできている。

2019年には7月と10月の二度も修行してしまいました。

 

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大社に着いた後は、熊野の温泉街で2日目を終えます。

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湯峯温泉街

中辺路の修行はここまでですが、せっかくなので那智滝のある那智勝浦まで足を伸ばしました。紀伊半島を西から東に横断したことになります。

 

那智大滝

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落差日本一である那智滝の前に佇んでいると、人間を超えた力に圧倒されます。

神や仏以前に、私たちが持っていた自然信仰とはこの感覚ではないか、そんな気にさせられるのです。

 

西行は一般に真言宗の僧侶とされていますが、天台宗のトップ(座主)や伊勢神宮の神官と交流があり、特定の宗教に囚われない思想の持ち主でした。

 

次の和歌は、一般に西行が呼んだとされる和歌ですが、その源泉は、ここ神仏混淆の聖地・熊野にある、そんなふうに思えてくるのです。

 

なにごとの おはしますかは 知らねども

かたじけなさに 涙こぼるる

 

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参考文献

白洲正子, 西行, 新潮文庫

西澤美仁, ビギナーズクラシックス 日本の古典 西行 魂の旅路, 角川ソフィア文庫 

金森早苗編, 楽学ブックス 神社4 熊野三山, JTBパブリッシング

金森早苗編, 熊野古道をあるく, JTBパブリッシング

吉野朋美, コレクション日本歌人選028 後鳥羽院, 笠間書院

辻邦生, 西行花伝, 新潮文庫

 

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西行の歴史を歩く 出家と法金剛院

願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

この通り和歌を読み、東方妖々夢西行妖誕生のきっかけを作った西行法師、

今回は京都は嵯峨野線の花園にある法金剛院から、彼の若かりし頃にスポットを当てていきましょう。

 

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西行の俗名は佐藤義清、代々武士の家系で彼自身も北面の武士(宮中の警護隊)として勤めてました。北面武士は武芸だけでなく、容姿の良さや教養も必要とされるぶん、将来の成功も望める役職であります。

 

あの平清盛も若かりし頃に北面武士であったようです。天皇に近い役職という有利が、平家の時代を作る下支えになったことでしょう。

 

さて、将来を確約された仕事についていた西行ですが、北面武士を突如として辞めて出家してしまいます。その理由は定かではありません。同僚の突然死によって無常感を悟った説や、ある高貴な女性からフラれたショックによるとする説が有力ですが、これら様々な思いが西行の中で渦巻いていた結果であり、一つの原因に収束できないというところが実態かと思います、なにせ、出家したのは23歳、悩み多き年代ですから。

 

ところで西行をフッたとされる高貴な女性は藤原障子後の待賢門院であると言われています。彼女は、白川上皇の孫娘で、鳥羽天皇の妃であり、崇徳天皇の母親にあたる高貴な女性です。

 

障子の人生は祖父である白河上皇の時代に絶頂を迎えましたが、それも長くは続きませんでした。白河上皇崩御後、鳥羽天皇の寵愛が別の女性(美福門院)に移ってしまったのです。

 

美福門院との権力闘争に敗れた彼女は、自信が建立した法金剛院で出家し、そのまま生涯を終えることとなります。

 

障子が出家して待賢門院となる頃には、かつての義清も出家し、西行となっていました。お互いに出家した後も、2人の交流は続いてた様で、待賢門院の従者である堀川局と西行が交わした和歌が残っています。

 

尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし

花と散りにし 君が行方を   西行

(尋ねても風の便りにも聞くことができない、

 花のように散ってしまった待賢門院の行方は)

 

吹く風の 行方知らする ものならば

風と散るにも 遅れざらまし   堀川局

(吹く風が行方を知らせてくれるのならば、

 遅れずに後をついていくのに)

 

美貌だけでなく、周囲に好かれる人となりの持ち主であったことが偲ばれます。

 

法金剛院は京都は嵯峨野にある律宗の寺院です。京都駅からJR嵯峨野線から徒歩で10分ほどの花園駅で降りれば、お寺はすぐそば。

 

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ここ法金剛院は待賢門院が信仰していた法華経の世界を現世に再現したかの様に、四季折々の花々が庭園を飾ります。特に見どころななのは、3月下旬の桜と6月下旬の蓮。

 

四季折々の華が楽しめるのに関わらず、あまり混雑していないところも、カメラ好きにはたまりません。

 

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待賢門院桜と呼ばれる桜は、濃いピンクに咲きます。名前の通り、本人もさぞ妖艶な方だったのでしょう。

 

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法金剛院の1番の見どころは蓮のシーズンで、蓮にはこんなにも種類があったのかと驚かされます。

 

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泥中にあっても清楚な花を咲かせる蓮は、仏教における悟りのモチーフ。失意のうちにあった待賢門院の祈りは今でもここに根付いています。

 

 

houkongouin.com

 

コロナの影響で閉まっていましたが、7月11日から拝観再開するそうです。

詳しくは下記リンクからご覧ください。

この時期ならギリギリですが蓮を見れるかもしれません

 

続きはこちら

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ニコニコに動画もあります

www.nicovideo.jp

【東方妖々夢と西行の歴史】虚構から史実を読み解く

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妖々夢は虚実入り乱れてるからこそ面白い


願わくは 花の下にて 春死なむ

その如月の 望月の頃

 

ある有名な歌聖はかく詠み、その通りに自身の生涯を終えました。

その見事な死に様に人々は大いに感動し、中には同じ桜の下で死ぬ者まで出る始末。

そんなことが繰り返されるうち、その桜は人を死に追いやる妖怪桜「西行妖」となってしまったのでした。

 

これは、言わずと知れたゲーム東方妖々夢のプロローグです。

 

妖々夢のプロローグが秀逸なのは、事実と虚構(フィクション)を巧みに織り交ぜている点で、和歌を詠んだとされる「ある有名な歌聖」にもモチーフがいます。

 

それは平安時代末期を生きた西行法師。生涯に2000首を超える和歌を残し、百人一首にも選ばれている彼には、冒頭の「願わくは」歌以外にも、桜と死にまつわる和歌があります。

 

仏には 桜の花を 奉れ

我が後の世を 人弔はば

 

これら2つの和歌はどちらも東方妖々夢のステージ開始時のカットインに登場しており、作品から西行の存在にたどり着くための手がかりとなっています。

 

 

また、その西行には娘がいたとされ、西行物語絵巻には西行が出家の際に娘を蹴り飛ばして出ていく様が描かれています。

 

この「蹴り飛ばされた娘」こそ、ある有名な歌聖の娘・西行寺幽々子のモチーフであることは言うまでもありません。

 

妖々夢のストーリーは事実と虚構によって彩られているのです。

 

原作者のZUNは、歴史的事実に幻想郷のエッセンスを加えた上で、このストーリー(=虚構)を私たちに提供してくれました。

 

それに対して私は、提供された側として逆のこと、つまり幻想郷の虚構から歴史的事実に触れていくことをしてみたいと思います。

 

それは、1人の歴史好きとして平安時代の出来事が現在にもつながっていることを実感することと、史実の視点から妖々夢のストーリーをより深く味わうことの二点を可能にしてくれると思うからです。

 

そのために、妖々夢のストーリーから下記の疑問を設定し、文献にあたったり、「聖地巡礼」を行いながらそれらの問いに答えていきたいと思います。

 

 

西行はなぜ、桜の下で死にたいと和歌を詠んだのか?

 願わくは 花の下にて 春死なむ

 その如月の 望月の頃

 

これは西行が死ぬ間際に詠んだ和歌と思われがちですが、実はそうではありません。73歳で生涯を終える西行60代の頃に詠んだ和歌です。なぜ彼は、死期を悟る前から死に様の歌を詠んだのでしょうか?

 

まずは、西行の生涯について、彼の和歌を参照しながら触れていきたいと思います。

 

西行の死は当時の人々にどのような影響を与えたのか?

妖々夢のストーリーでは、歌聖の死に様に感動して多くの後追いが出たとされています。ですが、宗教的に重要な役職についていたわけでもない西行の死が、多くの人々に影響を与えることなどありえたのでしょうか?

 

桜と満月の下での死は同時代の人々にどのような影響を与えたのかについて探ります。

 

③「西行の娘」は西行寺幽々子なのか?

 

出家に際して、娘を蹴り飛ばして出て行ったとされる西行。蹴り飛ばされた娘は、のちに亡霊となる西行寺幽々子なのか?

 

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正直、この問いに関しては参照できる文献が少ないのですが、その分想像の余地があると置き換えて考察してみたいと思います。

 

 

 

この試みが、より遠く、より深いところへ私を連れていってくれることを願って。

 

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西行が没した弘川寺(2019年3月 筆写撮影)

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